日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

はじめて

初めて喋った言葉は覚えていないけど
初めて作った詩のことは何となく覚えている
 
初めて食べたご飯の味は覚えていないけど
初めて炊いたご飯の味は何となく覚えている
 
初めて聞いた音楽は覚えていないけど
初めて買ったCDはよく覚えている
 
初めて読んでもらったお話は覚えていないけど
初めて好きになったお話を何度も読んでもらった
 
初めてできた友達は覚えていないけど
初めて好きになった人のことはまだ忘れられない
 
初めて見た夢は覚えていないし
昨日見た夢も覚えていない
 
幼い頃の夢はまだ覚えているし
今もまた追い続けている夢があって
 
初めて君と交わした言葉は覚えているし
最後に交わした言葉も覚えている
 
初めての温もりは忘れたくない
この温もりが最後ではありませんように

長い話の後で

 一個前のブログの記事を書くのに、多分6時間くらい費やしたのだけれど(遅筆・遅漏)、もう何やってんだろうって感じ。それで、ノルウェイの森を久しぶりに読み返したら、レイコさんの過去の話で泣けてきて、実のところ作中だとレイコさんが一番詳細に過去が語られているなと思い、レイコさんの年齢にもそのうち追いつくと考えるとまた泣けてきた。やっぱり、小説は素晴らしいし、下手な評論よりは小説を読んでいたほうがずっと精神に良い。創作内に嘘があるとかないとか、どうでも良くなる。詩は思想の表明ではない。

 

嘘2(枡野さんと穂村さんの対談を読んだ雑感)

2018年8月17日追記
 時間をかけて書いたから消したくないんだけど、チキンだから消したいという感情がある。この対談を読んでTwitterを見ていると、どうしても意見の対立が目につくし、このブログの記事も物事を単純化しすぎたせいで、結論が飛躍しているとも感じた。今のところ残しておきますが、何か問題があれば、DMください。まあ、アクセス数を見る限り見ている人は10人もいないっぽいが。
 

2018年8月29日追記斉藤斎藤さんにお会いする機会に恵まれ、やはり自分の文章が全て想像だけで書かれていて(まさに机上論)、かつ論理が飛躍しているなあと感じた。一応残しておくけど、消すかもしれない。枡野さんのおっしゃっていることも理解できるのだけれど、特定の人物を標的にするのはやり口が上手くないかなあと思っている。

 

言葉の力

 
 昨日のうたの日(うたの日はオンラインで毎日開催されている歌会です)。
 
見えている色をあなたに伝えたいのに「青」「あお」「アオ」"ao" 不自由だ、言葉は
『 不自由詠 』 ニコ #うたの日 #tanka http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=1596e&id=10

 

 有り難いことに、評を二つ頂いた。
 
この歌にコメントしてしまうのがすこし悔しくて というのは結局「不自由だ、言葉は」ていう結句のステイトメントにわたしは反応してしまってるんですよね
「言葉は不自由なんかぢゃない」て心の底から思っていて私には大好きな短歌や大好きな大喜利や大好きな小説の一節があってそこではみんな本当にかわいく言葉が羽ばたいてるんですよ 少しでもそこに近づきたくてわたしも短歌を作ったりしているんですけどその方法として直接的な表明ではなくてただ目の前にある「もの」を信じるていうやり方を採用してやってきたのでこういう表明短歌に足を止めちゃうのがすこし悔しいんですよね すみません‥もちろん信じるものは自由だしそれが悪いと言ってるのではないんですけどね
詠者さんも本当の意味で言葉は不自由だとは思ってないと思うんですけどこんなに分かりやすい形で言葉が使われているのを見ると「言葉の不自由さ」をわたしはすこし感じてしまいます いろいろ考えてしまいました
白黒つけたいカフェオ-レ

 

不自由をどう捉えるか、今日は悩ましい題だなと思いました。
詠むにあたって、不自由だと感じているものを書き出してみたのですが、一番最初に書いたのが、「言葉」でした。
自分の感覚に一番近しい歌で、とても共感したので、今日はこの歌にハートを入れました。
美しいものを美しいと伝えるとき、それをどうやって言葉にしたらよいのだろう、どうやって伝えたらいいのだろう。短歌を詠むようになってから、いつももどかしく不自由に感じています。
見えている色を伝えたいとき「青」「あお」「アオ」という文字でもなく、「ao」という音でもない。もっとしっくりくる、ぴったりな言葉があるはずなのに見つからない。だから、既存の言葉に頼るしかない。そんな不自由をそのまま歌った短歌。
不自由だと分かっているのに、それでも言葉を探しづけて「あなた」に伝えようと足掻く姿が、美しいのだと思う。心を打つ、好きな歌です。
未補

 

 私はこう返信した。

 
白黒つけたいカフェオ-レ様
コメントをありがとうございました。今回の歌は題に引きずられて、直接的かつ説明的になってしまったなと、コメントを拝見して思いました。結果として扇情的となっていて、詩としての完成度が低かったと思います。
私自身も、大好きな短歌や詩や小説があって、その中の言葉たちに心を動かされているのは揺るぎない事実なのですが、その気持ちは後天的に作られたというか、言葉という枠組みの中で生じた幻想のようなものではないだろうかという思いが、常に頭の片隅にあるような気がします。幻想でも、それはそれで良いのですけど、かつて小林秀雄が『美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。』と言っていたように、自分が花の美しさに言及するとき、それはすでに言葉の不自由さに囚われてしまっている気がして、何だか悔しいと思ってしまいます(小林秀雄の言葉は特に言語についての不自由さについて述べたものではないと思いますが、これ以上は専門でもなんでもないので、言及は避けます)。
ただ、それはそれとして自分は言葉を使って短歌を詠んでいるので、なんというか意味もなく大人にただ反発する子供のような歌になってしまいました。白黒つけたいカフェオ-レ様のコメントで、自分のそうした斜に構えたものの見方や卑しさが暴かれてしまった気がして、恥ずかしい気持ちです。重ね重ね、コメントに感謝いたします。
 
未補様
コメントをありがとうございます!上の自分のコメントと矛盾してしまうようですが、共感をしていただけると大変に嬉しく思います。
今回は単にクオリアの話で、色の伝える困難さの話になってしまいましたが、未補様のおっしゃるように例えば美しさや愛なんかを、我々は言葉を使って、ここにいる方たちは短歌という形にして必死に伝えようとしますが、どこかにもどかしさを感じているのかもと思います。
今回のお題で点字の歌を詠んでいる方もいましたが、
 
「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい/笹井宏之
 
や、うたの日でも西村曜さんの
 
「花束」の手話がわからず思い切り抱きしめてみる たぶん合ってる
『 花束 』 西村曜 #うたの日 #tanka http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=1118a&id=29
 
といった歌があって、言葉の力、というものについて考えてしまいます。
完全に蛇足ですが、今回のお題で
 
識字率100%のこの国でただ抱きしめることしかできず
 
という歌も作りましたが、完成度が低い上に西村さんの歌とかぶるので出さなくてよかったなと思います(というか既に類想歌がありそう)。
コメントをくださって本当にありがとうございました。
 
ニコ  
 
 今回は言葉の不自由さというか、不完全さについて言及した短歌となって、その詩としての完成度はさて置き、なんかコメントを頂いて、自分は言葉の力を信じていないのかなと、落ち込んでしまった。言葉を信じていないというか、自分の信じる言葉を使っていないというか。前者は言葉を全体的に信じているということになるが、後者は言葉の一部を信じていることになる。自分が持っている言葉の中に、信じられるものと、信じられないものがあるのか分からないけど、ここでは好きか嫌いかで言い換えてみたい。というと、単純に自分の好きな言葉で文章を書いているのか、と考えるとできているか怪しいなと思い、恐ろしい気持ちになる。
 自分の創作物が好きになれないと思うことが多々あって、それは人からの評価を受けていないということが第一に理由として挙げられてしまうのだろうが、そもそも好きな言葉を使って書いているのだろうか、と思う。これが好きだ!、と思いながらちゃんとやっているのかなと。自分が感動したことをきちんと消費できているのかなと。人からの目だけではなく。
 自分が避けているのは、言葉に対して責任を負うことで、それができていないから、これが好きだと心から思えていないし、人からの批判を恐れてしまっているのだろうと思う。結局技術ありきになってしまって、中身が入っていない。
 まあ、今回の歌は言葉の不自由さについてで、言葉への好き嫌いは別として、では言葉に万能性はあるのかと考えると、私は恐らく信じていない気がする。これってまずいのかな。でもこれについてはブログでも何度か話したことではある。でも、好きか嫌いかについて、言葉に責任を負えるかどうかについて、それはきちんと表現していきたいなと思うし、コメントでもそこの部分を突かれてしまった気持ちなので、ちょっと冷却期間を置きたい。単純にうたの日を少しお休みするってことですが。
 
過去の記事

スミノエ

 朝。
 あの人のいなくなった後のベッドは微かに墨の匂いがする。それに気がついてから、あの人は一冊の書物なのだ、と感じることができるようになった。私は夜の間だけ、あの人を開くことができる。あの人の内側を、覗くことができる。しかし、それは朝になると閉じられてしまう。そして、墨の匂いだけが残されるのだ。
 昔であれば、それは煙草の匂いだったと思う。あの人自身が煙草の煙のようだった。朝。ガソゴソと音がする。ライターで火を点ける音。僅かに溢れる光。匂い。もう一度眠る。起きる。もういない。遠くの花火のようだった。音はする。煙は流れてくる。しかし、光は見えない。もう煙草は止めてしまったのだろうか。
 
 
音はすれど光は見えぬ明け方の紫煙のような遠くの花火
 
 
 炭と墨は同じだろうかと今更になって気になってしまい、調べてみる。炭は無機物だが、墨は有機物だろうか。有機物と無機物の間は、生きているのか、死んでいるのか。有機物を燃やして無機物を作り、無機物から有機物を作り、有機物を使って無機質な書物を作り、そして無機質な書物を永遠に残そうとしている。循環。輪廻。そのまま燃やし尽くして灰にしてしまえばよかったのに。どうして、何もかもを永遠に残しておこうとするのだろうか。文章も絵も写真も、燃やしてしまえば一瞬で灰になるのに。永遠なんてどこにもない。
 
 
永遠を閉じ込めた日の写真あり灰にするのは一瞬のこと
 
 
 ハチミツとクローバーを読んだのはもう随分前なのだけれど、今でも一番よく覚えているのは、森田さんが醤油で絵を描くシーンだ。あの、全ての時間が止まったようなシーンだけが、いつまでも頭に残っている。あの絵は醤油の匂いがするのだろうか。
 
 私には、墨の匂いがした。
 
 「墨繪」というレストランが新宿にある。そこのレストランで出しているパンがレストランの裏で売っているので、そのパンを買ったことはあるが、レストランに入ったことはない。お店の名前の通り、レストランの壁には水墨画が飾られているのだろうか。墨の匂いがする中で食べる料理はどんな味なのだろう。
 
 そうこうしているうちに夜となる。あの人が帰ってくる。部屋からは墨の匂いがすっかりと消え失せてしまった。生きているのか、死んでいるのか、よく分からない匂いが部屋を充満している。
 
 夜。
 私は一冊の書物を開く。書物からは墨の匂いがする。私はその書物から永遠を見つけようとする。その書物が開かれているのは夜の間だけだ。朝になると閉じられてしまう。私は永遠を見つけようと、書物の隅から隅までを観察する。しかし、私は見つけることができない。分かるのは、人々が永遠を残そうと足掻いた僅かな痕跡だけだ。
 
 
永遠を閉じ込めている芸術に一瞬通る人の儚さ
 
 
 そして、朝。

百貨店

 ものすごく疲れている時は、物がいっぱいある空間に行くと落ち着く。それを夫に伝えると、会社帰りに私の買い物に無理やり付き合わされている彼は、少しうんざりしたように、そうかな、俺は物がいっぱいあると、それだけ情報量が多いってことだから頭が混乱してくるけど。それに人混みも苦手だし。君だって家が散らかっていると落ち着かないって言ってたじゃないか、と答えてくる。彼の言っていることはもっともで、特に反論の余地はない。私だって人混みは嫌いだし、家の中はなるべくなら清潔で、床にはチリひとつない状態であってほしい。しかし、それは家の中の話であって、私が言っているのはお店の中の話だ。人混みについては仕方がないので、なるべく閉店間際の客が少ない時間帯に、今日みたいな会社帰りに行くようにする。店員もそわそわしていて、早く帰ってくれないかなという空気が出ていて、それに釣られて客も急ぎ足で買い物をしているような空間の中で、ゆっくりと閉店時間ギリギリまで商品を眺める。食品を見ては、その味を想像する。何かの集まりにお土産で持っていこうか、今度自分へのご褒美に買おうかなと考える。食器を触ってみて、それを使っているところを想像する。食器に上にどんな料理を乗せたら素敵だろうかと考える。何に使うかわからないようなものを見るのも好きだ。そうやって時間を使う。夫はイライラしているが、無視する。何か買うときもあるが、大抵は何も買わない。店員からしたら厄介極まりない客だろうと思う。申し訳ない。
 好きなのは東急ハンズやロフトみたいなよく分からない雑貨がたくさん置いてあるお店だ。無印良品は、置いてある商品が、全て無印良品のブランドなのが気になる。もっと、多種多様なメーカーの物が置いてあってほしい。コンビニならちょっとオシャレなファミリーマートより、ナチュラルローソンの方が好きだ。商品数が多くて、雑多な感じがするから。伊勢丹高島屋三越のような百貨店も好きだ。特に地下の食品売り場が好きだ。そこで、食べる試食品や、芸術作品と思えるようなケーキを見るのが好きだ。関係ないけど、私はデパートという呼び方よりは、百貨店という呼び方の方が断然好きだ。食品といえば、カルディや成城石井のような、食品百貨店といった感じのお店も好きだ。お店が狭いと人が多い時に閉口してしまうけど。ドン・キホーテも好きだが、お店が狭いのと人が多いのがやはり気になってしまう。予備校生の時は、一緒に住んでいた伯父と夜中によくドン・キホーテに行った。そこでよく分からないレトロゲームとか、栄養ドリンク五ケースとか、お腹につけるだけで振動で腹筋が割れる健康器具などを買った。食品以外は全部倉庫で埃を被っている。
 でも、一番好きなのはアンテナショップだ。東急ハンズや百貨店やドン・キホーテはどこに何があるのかが、カテゴリーで分けられてしまっているのがつまらない。もっとどこに何が置いてあるのかが分からないくらい、自由であってほしい。アンテナショップは食品や工芸品や地方誌などが雑多に置いてあるのが嬉しい。食品は美味しいものもあるけれど、それ以外にどんな味がするのか想像ができないものもあるのが嬉しい。工芸品も、目を見張るような美しいものの他にも、その土地ならではのものを見たり触ったりするのが幸せだ。地方の雑誌を見ると、私が今まで知らなかったその土地の生活を知ることができて楽しいし、いつかそこに行ってみたいなと思う。アンテナショップに行って、何かを買うときもあるし、何も買わないときもある。ただただ、商品を眺めているだけで、楽しいし、幸せだ。いつか買うかもしれないし、永遠に買わないかもしれない。買わない可能性の方が高いだろう。それでもいい。そうやって自由な時間を過ごすと、私の凝り固まった頭がほぐれていくのを感じるから。私の世界が広がるのを感じる。私はもっと好きに生きて良いんだとも思う。
 それを全部夫に話すと、彼はよく分からないなあという表情を、隠すことなく顔に出す。加えて口にも出す。お店に行って、何も買わずに帰るというのがよく分からない、と。もっと目的的に生きたほうが良いんじゃないかな、何も買う気がないのに商品を眺めるなんて時間の無駄だよ、とまで言う。でも、と私は反論する。あなたも読みもしない本を買ったり、何も買わないのに本屋に行ったりするじゃないかと。そうじゃない、買った本はいずれ読むつもりだし、本屋に行くのもいずれ買って読む本を探すためだよ。特に意味もなく行っているわけじゃない、と夫は言う。必要なものを必要な分だけ買う、それがスマートな生活じゃないかな、あまり意味もなく買い物をするのは、大量生産大量消費の資本主義だよ。スマート、私はその単語を聞くと、そんなものは憐れな蝿のように牛蛙に食べられてしまえばいいのにと思う。そうだ、あなたはそうやって必要なものを必要な分だけ摂取する生活が好きなのか。そんな余白や無駄のない人生のどこが楽しいのだろうと思う。あなたは人生に本当に必要なものが分かっているのか、と尋ねたくなってしまう。そして、それに私はちゃんと含まれているのかと。そんなにスマートが好きならば、必要最低限の栄養だけをサプリメントで摂って生活すればいい。そう言いたいのをぐっと我慢して、私は彼に素敵な食器の上に乗せた、素晴らしい料理を提供する。彼は料理を褒め、大抵そこで言い過ぎたと気づいてくれる。
 まあ、私も疲れていると、ファミレスとかで料理を選ぶのが嫌になるし、醤油ラーメンだけで勝負しているラーメン屋で食事をしたい、そう言うと、彼はそうだろうそうだろうと満足そうに頷く。その顔の右頬を私は引っ叩く。ついでに左頬も。彼はキョトンとする。なぜ叩かれたか分からないから。無駄に叩かれたと思っているのだろう。その驚いた顔を見て私は満足する。無駄だと思うなら、そう思っていてもいいよ、でも私には必要なことだから。

YUME

 好ましくない夢を見た。倫理的に。夢に倫理を持ち込むと、それは現実になる。心の中で。
 高校のクラスで、英語の担当が黒人のレイシストだった。どこか奇妙な思いがしたが、それは私自身の中の前提となる知識に偏見があるのだろう。彼はユダヤ人の少年にローキックを食らわせていた。本気ではなかったと思う。本気だったらもっと痛がっていたはずだ。
 ただ、これは教育ではない、体罰だ、暴力だ、と思ったので、私は教室から職員室に内線で電話をした。本当は直接警察に電話をしたかったが、番号が分からなかった。しかし、電話に出たのは超保守的な先生だった。彼女にこれこれこういうことが起きて、警察を呼んでほしいと伝えた。しかい、彼女は私の言っていることを信じてくれず(先生が生徒に暴力を振るうなんてありえないと思っていたか、そんなことは大して問題ではないと考えていたのかもしれない)、電話を切ると、私の教室へとやってきた。でも、その先生が教室に来たときには、すでに暴力は終わっていた。黒人の先生とユダヤ人の少年は素知らぬ顔で教室に立っていた。その先生は「どこで暴力が行われているのですか?」と私に尋ねた。私は何も言い返せなかった。「あなたの世界で」と言ってしまえば良かった。
 
 本当はすごく怖い夢だったのだけれど(黒人の先生はボブ・サップのような体型だったから)、あまり怖いと感じなかった。どこかでこんなものは夢に過ぎないと思っていただろう。そういう、冷めた視線を夢の中に持つことがある。恋愛ではどうだろうか。
 
 優しい話と言うと、万物には人格があるようだ。「優しい気持ちを引き起こす話」のことを「優しい話」と呼ぶ。話自体が優しいわけではない。