日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

クオリアについて知ってることは何もない

 鎌倉の稲村ヶ崎温泉というところに行ってきた。入浴料が1500円で東京の銭湯の3倍くらいする。正直に言って、高いと感じる。生来の貧乏性のため、食事とかお風呂が1000円超えると少し躊躇が入る。でも、結果としては行ってよかった。窓から湘南の海が見える。16時位に行って、1時間ほどダラダラと入っていた。同時に入った人達が10分ほどで出ていってしまったので、1500円が勿体なく感じないのかなと思ってしまった。大きなお世話だな。

 時間帯が良かったので、湘南の海に沈む夕日と、富士山を見ることができた。意味もなく短歌を作った。作ったは良いが、スマホがないのでメモができない。何度か頭の中で復唱して、記憶に定着させる。この行為も意味があるのか分からない。多分ないだろう。油断するとすぐ意味とか考え出すのをやめたい。

 夕焼けをずっと眺めていて、この色ってどう表現すれば良いのだろうと考えていた。BLANKEY JET CITYの「赤いタンバリン」という歌の歌詞に、「夕暮れ時って悲しいな オレンジジュースとミルクまぜながらつぶやいた」という言葉が出て来るが、夕焼けを見ているとこの文言が常に頭に浮かんでしまう。もんもんと考えているうちに「琥珀色」というのが出てきて、少しだけホッとした。在り来りかもしれないけど。

 askで「生まれつき目の見えない弟に、晴れた秋の空はどんな感じか聞かれたら、何と説明するか」という質問をダイレクトに投げ込まれてから、よくこの問題について考える。今日も温泉で考えていた。この夕焼けとか青い空とか、目が見えない人になんて説明すれば良いのだろうと。
 この手の問いは、無から有を生み出すことと同意ではないかと思ってしまう。目が見えない人に色をどう説明するか、耳が聞こえない人に音をどう説明するか、三次元の人間に四次元の世界をどう説明するか。
 目が見えている(と信じ切っている)自分でも、見えていない色の領域は存在する。赤外線や紫外線は見えていないし、世の中には4色型色覚を持つ人もいるみたいだ。音も聞こえない領域があるし、年を取るにつれて高周波の音(モスキート音)が聞こえなくなるらしい。絶対音感を持つ人で音と色を結びつける人もいるというし、大前提として人によって見えている世界は違うし、全人類が見えない世界も存在する。
 紫外線はどのような色なのか、聞こえない高周波の音はどのような音なのか、「色」や「音」を知っている人間でも想像することは難しい。そもそもそれは「色」や「音」なのだろうか。
 何かの延長として想像することは苦しいけど可能なのかもしれない。このまま周波数を上げていったらどんな音になるのか。しかし、何もないところから「それ」を生み出すことができるのは神様くらいではないだろうか。少し陰鬱な気分になる。すぐに神様を持ち出すのは卑怯だ。もっと問題に真摯に立ち向かいたい。

 洞窟にいるコウモリや魚、地中にいるモグラなんかは目が見えないらしい。それでも勿論何の不自由もなく生きている。視覚情報があると、それが全てだと思いがちだが、別にそんなことはないはずだ。我々は目に頼りすぎていて、見えるものが全てだと思いすぎなのだろうか。星の王子さまのきつねの言葉が頭をよぎる。単純に足りないのは想像力なのかもしれないと思い始める。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、五感にはない世界も確かにある。
 
 果たしてみんなが世界をどう見ているのか。それはとても興味深いし、実際に見てみたいと思う。見るというか、感じてみたい。

 やはり、まとまらなかった。これが限界です。

 目を瞑っても闇は見えない。目蓋の裏側が見えるだけ。