日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

ネクタイ

 祖父が大量のネクタイを遺していったため、生まれてこの方、社会人になった後でも自分のお金でネクタイを購入したことがない。
 ネクタイ以外の遺産は、私の両親と叔父・叔母が醜く争った挙句に、細かく散り散りになってしまった。
 当たり前の話かもしれないけれども、朝会社に行く前、鏡に向かい祖父のネクタイを首に締めるたびに、祖父は同じように毎朝鏡の前でネクタイを結びながら、いつも何を考えてきたのだろうと思う。

 祖父はおしゃべりで多少わがままだった祖母とは対照的に、寡黙な人で、家でも家族とほとんど会話をしなかった(我が家は二世帯住宅だった)。仕事一辺倒な人物で、家庭のことは祖母に任せっきりであった。本当に典型的な昭和の男という感じだ。仕事以外に特別な趣味もなく、定年後はたまに祖母と旅行に行くくらいで、普段は家にいるか近所を散歩するくらいの行動しかしなかった。おしゃれにも無頓着で、唯一と言っていいほどの趣味、というか興味の対象がネクタイを集めることだった。
 一度だけ祖父に「なんでこんなにネクタイを持っているのか」と質問したことがある。祖父はいつもの調子で、ゆっくりと「これは俺の趣味みたいなものだからなあ」と応えてくれた。そして、
「前の日に会社や家で嫌なことがあっても、朝ネクタイの柄を選んで首に締めると、何というか気分が変わって、明るい気持ちになってくるんだ。まあ、自分なりの精神安定の方法かな。サラリーマンはいつもスーツを着るから、ネクタイの柄くらいしか、毎日はっきりと変えられるところがないしな」
「それにこのネクタイは、チエ(祖母のことだ)から初めて貰ったプレゼントなんだ。これはキヨコ(叔母のことだ)から父の日にもらったもの。これはヒロシ(父だ)があいつの初任給で買ってくれたやつ」
と言っていた。

 先日ふとこの話を思い出して、少し感傷的な気持ちになった。
 それ以来、祖父のネクタイを締めるたびに、祖父に見守られているような、見張られているような、変な気分になる。鏡の前の自分は少し疲れていて、きっと、間違いなくこの先祖父に少しずつ顔が似てくるのだろう。

「背筋を伸ばせ」

 普段は寡黙な祖父が言った格言めいた発言。祖父も鏡の前でこの言葉を自分に向けて発していたのかもしれない。

 一応ですが、フィクションです。