日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

暗い日曜日

 
 「暗い日曜日」という曲がある。
 初めてその名前を知ったのはいつだったか。確か浦沢直樹の「パイナップルARMY」にその曲を題材にした話が出てくる。まだ、世界がそこまで繋がっていなかった時代。まさか顔も知らない誰かとリアルタイムでやり取りし合う時代が来るとは思っていなかった。電話は確かにあったけれども、でも電話なんて一家に一台あればよくて、自分一人の世界を保持しつつ、こうやって世界中に情報を発信するなんて。とにかく世界は広く感じてしまう。
 暗い日曜日は曰く付きの曲で、この曲を聞いて自殺した人が何百人もいたらしい。まあ、都市伝説の類らしいけど、歌詞や曲調は確かに陰鬱な感じで、聞いていて気分が悪くなってくるというのは分かる。私も何回か聞いたことがあるけど、感受性が低いためか、幸いながらまだ自殺するまでには至っていない。
 
 
 音楽、いや音楽に限らず一般に芸術と呼ばれるものたち、文芸や美術などにこのような人を死に至らしめる力はあるだろうか。メル・ギブソンの「パッション」という映画を見ていた女性が、キリストの拷問のシーンがあまりに凄惨なために、心臓麻痺を起こして死んでしまうというニュースが以前あった。これもある意味で芸術の力といえるだろうか。本当に?
 音楽にしろ、絵画にしろ、構成要素を考えると「音」と「色」であって、それ自体は単なる「波」だ。波の構成要素を考えると、振動数・周期・振幅・波長・波数などがあって、これらは物理量として規定されている。そしてそれ以上のものはない。この波自体にも確かにエネルギーはあるけれど、人にダメージを与えられるレベルとなると、強烈な太陽光とか、放射線とか、フェスで使うスピーカーとか、そういう類だ。だから音楽とか絵画自体が何か物理的に人に影響を与えることはない、はずだ。
 では、聞いたり見たりして、感動したり、ショックを受けたりするのは、単純にその人の感受性の問題という話になる。その人自身が感じたクオリアがその人に影響を与えているのだ。機械的な物理量が機械的に影響を与えているのではなく、心理的な物理量が機械的に影響を与えている。
 だから、音楽も絵画も、分解してしまえば単なる情報量だ。ピクセル数だ。それだけだ。そうなんだ。
  
 なんだか当たり前の話を言っているだけな気がしてきた。
 
 昔、現代文の授業で、高階秀爾の「美しさの発見」という文章を読んだ。その中の一節を以下に引用する。 
 芥川龍之介が小学生の頃、先生が教室で「美しいもの」の例を挙げなさいと言った時、少年龍之介が「雲」と答えて先生に叱られたという話を、以前どこかで読んだことがある。ほかの子供たちは、「花」とか、「富士山」とか答えたのに、龍之介が「雲」と言ったので、教室中が失笑し、先生は、雲が美しいものだなどというのはおかしいと叱ったのである。このエピソードは、龍之介が子供の頃からいかに鋭敏な感受性の持ち主であったかということを示すものとして、しばしば引き合いに出されるが、それと同時に、先生の方が──それと他の生徒たちも──「美しさ」というものを「花」や「富士山」の中に内在しているある種の性質と考えていたことをも裏付けている。つまり、ラジウムウラニウムには放射能があるが、その辺の道端の石っころには放射能がないというのと同じで、龍之介がたまたま、「美しさ」という放射能を持ったものとして「雲」と言ったので、皆笑い出したのである。
 しかし、「美しいものは雲」と答えた時の少年の心の中に、確かにある種の実感があったに違いないことは、容易に想像される。われわれは、魂が高揚している時、例えば人を愛している時には、空の雲にも涙を流すことがある。詩人というのは、人並み優れた鋭い感受性と柔軟な魂の持ち主だから、普通の人が何とも感じないような平凡なものに、思いもかけず「美しさ」を見出すということは、しばしばあるに違いない。だが、もしそうだとしたら、「美しさ」は、草花や山といった対象にあるのではなく、それを「美しい」と感じる人間の心のほうにあると言わなければならないのではないだろうか。つまり、放射能のようにあるものに属する性質というよりも一人一人の人間の心の中にふと灯った燈火のようなものではないだろうか。
高階秀爾『美しさの発見』)

  これは先程私が書いたことそのままだ。実際の芥川の文章は以下で読める。引用もする。

 確か小学校の二、三年生のころ、僕らの先生は僕らの机に耳の青い藁半紙わらばんしを配り、それへ「かわいと思うもの」と「美しいと思うもの」とを書けと言った。僕は象を「かわいと思うもの」にし、雲を「美しいと思うもの」にした。それは僕には真実だった。が、僕の答案はあいにく先生には気に入らなかった。
「雲などはどこが美しい? 象もただ大きいばかりじゃないか?」
 先生はこうたしなめたのち、僕の答案へ×印をつけた。
芥川龍之介『追憶』)

  いつもここまで考えて何となく納得してしまうのだけれど、でも完全に納得できない自分もいる。本当に世の中に存在するのは単なる機械的な物理量で、それは受け取る人によって感じ方は変わってきてしまうものなのか。絶対的なものはないのか。何も知らない動物たちが思わず足を止めてしまうような。私の感動と君の感動を完全に共有することは無理なことなのか。

 徳島県大塚国際美術館という美術館がある。ここにはミケランジェロの「最後の審判」やダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が展示されている。しかし、展示されているものは全て「陶板複製画」と言われるもので、いわば偽物だ。それでも、絵画の知識がある人がそこの美術館に行けば、きっと感動を得られることだろう。その感動は、本物のミケランジェロダ・ヴィンチの絵画を見た時のものとは異なるのだろうか。余談だが、私は大塚美術館に一回だけ行ったことがあるが、とてもじゃないが一日で回れず、有名な絵をバーっと見て終わってしまった。本物の絵を見たことがないので、その違いは分からないけど、多分本物絵を見た時の方が感動すると思う。なぜか?それは、その時と今の精神状態が違うというのもあるし、展示されている環境の違いというのもあると思う。ただ、「絵」そのものが持つパワーが違うのかというと、それは分からない。
 
 坂本龍一が以前朝日新聞の対談で、音楽は世界を救うことができるのかという話をしていた。ちょうどイラク戦争が起きた時くらいだろうか。銃撃戦の中、ふと美しい音楽が流れたとしたら、兵士達は戦闘をやめるだろうか。音楽にそれほどの力はあるだろうか。答えは「否」だったと思う。音楽にはそこまでの力はない。ただ、兵士達の思い出の中に少しでも昔聞いた美しい音楽が残っているのだとしたら、人々の心の中に音楽を愛する気持ちが残っているのだとしたら、もしかしたら世界はより良い方向に進んでいくかもしれない、という風に結んでいた。
 
 正直に言おう。僕は高階秀爾坂本龍一の話を初めて聞いた時、とてつもなく嫌な感じがしたんだ。何だか愛とか感動とか、そういう心の動きが全部錯覚だと言われた気がして。だってどんなに素晴らしい作品も自分の心によって変わってくるなんて、すごく孤独ではないか。そんな人それぞれみたいな意見はあまりに貧しい。MASTERキートンの「喜びの壁」のエピソードじゃないけど、みんな自分の宇宙の中から出られないなんて寂しすぎる。それは確かに真理かもしれないけれども。
 前に書いた部屋の話ではないけれど、お互いの部屋を行き来して、話をしてみたい。感動を分かち合いたい。そう思う。本当に。そして可能であれば、誰かの心を動かすようなことをしてみたい。それだけなんです。
 
 最後に小林秀雄の言葉を引用する。
 美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。