日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

地下鉄で傘を忘れた話(短編小説)

世界観という言葉が苦手だ。
世界観って何を表しているのか。クリープハイプか。世界って何だ。
 
そういう話。
 
 あっと気づいた時にはもう遅くて、地下鉄に傘を忘れてしまった。
 それでも褒めてほしい部分があって、上りのエスカレーターに乗っている途中には気がつくことができた。しかし、上までに行ってからすぐに階段で引き返したけど、乗っていた電車は既に行ってしまった後であった。そばにいた駅員に、
「すみません、電車に傘を忘れてしまったのですが」
と伝えると、駅員はあーと言いながら
「もう電車行ってしまいましたね」
と応えてくる。それは見れば分かる。
「ひとまず今走っている電車を止めるわけにはいかないので、駅長室に行ってください」
そう告げて駅員はまた仕事に戻り、「ホームドアからは離れてください」とアナウンスを始める。
 
 やれやれ。仕方がないので、ひとまず会社に遅れることを電話する。
「すみません、傘を地下鉄に忘れてしまったので、少し遅れます」
と伝えると、上司は不機嫌な様子を隠そうともせずに
「分かった」
とだけ言い、電話を乱暴に切った。上司が何を言いたいかは分かる。しかし、私は中学校時代に大事にしていた傘を盗まれて以来、どうしても今持っている傘を失くしてしまうということが耐えられないのだ。
 
 駅長室は改札から少し離れたところにあった。薄暗い雰囲気で、特に用事がなければ誰もここに立ち寄ることはないだろう。もしかしたら、注意をしなければそばを通っても存在に気づかないかもしれない。
 ドアを開け、すみませーん、と声をかける。しばらくしてから、奥から駅長が出てきたが、それがなんと女性であった。驚かなかったと言えば嘘になる。どうしても電車が大好きですといった雰囲気の男の人が出てくるものだと勝手に思っていたからだ。
「どうかしましたか?」
と聞かれたので、
「すみません、傘を電車に忘れてしまって。ついさっき行ってしまった電車なんですけど」
とだけ言う。
 駅長はニッコリと笑い、あら大変、と楽しそうに言ってくれた。私はそれを見て少しだけ不安な気持ちになる。
「でもまだ傘の忘れ物はこちらに届いていないわね」
 それは分かっている。ついさっき行ったばかりの電車だと伝えたではないか。少しイライラしてしまい、
「8時35分にこの駅を出た電車なんです。だからまだ終点に着いていないと思います。電車が終点に着いたら点検をしてもらってもよろしいでしょうか」
と少しきつい調子でお願いをしてみた。
 駅長は笑顔を崩さない。もちろんだ、それは分かっているから大丈夫、全て私に任せなさい、という風に。私は少し疲れを感じてきていた。たかが傘ではないか。なぜここまで。
「もちろんそれはいいけれど、電車が終点に着くまでにまだ時間がかかるわ。どんな柄の傘なのか教えてもらえる? あと、あなたの連絡先も」
 
 駅長に聞かれて私は回答を始めた。
 動物の絵が描かれたオレンジ色の傘で、長さは60cmです。ビニール傘ではないです。きちんとしたもので、東急ハンズで買ったんです。柄が気に入って。夕焼けみたいな色なんです。雨上がりにこんな夕焼けを見られたら素敵だなと思って、動物はキリンとかゾウとか、アフリカにいるような動物ですね。アフリカには行ったことないですけど。動物園にでは見たことがあります。名前ですか。清水と申します。はい、「清い水」と書いて「清水」です。下の名前は幸子です。はい、「幸せの子」と書いて「幸子」。え、住所と電話番号も。住所は東京都……、電話は070の……。職場の情報はいらないですよね。はい、職場の最寄り駅はここです。あ、働いている場所はそこではないですよ。近いといえば近いですが。そこのパン屋は知っています。お昼によく買いに行きますよ。クリームパンが絶品ですよね。太るなーと思いつつもついつい買ってしまいます。
 
 後半はほとんど雑談であった。時間は9時半を回っていた。今日は10時から部の月例会議があった気がする。でも会社の状況説明だし、営業部でもない我が部にとってはあまり関係がない。部のプロジェクトが佳境に入っているので、出席する人も少ないだろうし、出なくてもいいだろう。私としては部長の話を聞くのは嫌いではないし、会社に関わっているという実感が湧くので出ても良かったが。
「もうそろそろ私が乗っていた電車が終点に着いたんじゃないんですかね」
 私はそう駅長に尋ねる。その頃には不思議ともうイライラはだいぶ収まっていた。疲れはまだ少し感じていたが。
「そうね、電話してみましょうか」
 そう言って駅長は、おそらく終点の駅に電話をかけ始めた。ああ、これでやっと解放される。午後は出社できるかもしれない。お昼までにまだ時間があるから、いつもお昼時は混んでいて入れないカレー屋に行って、ゆっくりランチにでもしようか。本屋に寄るのもいいな。欲しい新刊が今日出たはずだ。帰りに寄るつもりだったが、その本を買って午後までカフェでのんびりするのもいいだろう。あれ、でも傘が見つかったとして、誰かが届けに来てくれるのだろうか。それはなさそうだ。じゃあ、私がわざわざ終点の駅まで取りに行かないといけないのか。やっぱりあまり時間はなさそうだ。
「幸子さん、今終点の駅に電話をしたのだけれど、あなたが言っているような傘は電車の中になかったし、届けられてもいないらしくて……」
 不意に自分の名前を呼ばれたが、それが自分の名前だと気づくのに時間がかかってしまった。人から下の名前で呼ばれるのは随分と久しぶりな気がする。彼氏はさっちゃんと呼んでくれるが。それにしても、この人随分と馴れ馴れしいな。
「え、じゃあどうすればよいですか? もしかして盗まれたとか」
「分からないけど、とにかくこの路線上の駅全部に電話してみるわね。もしかしたら途中駅で降りた誰かが届けてくれたのかもしれないから」
 たかが傘だというのに、親切な人だ。しかし、だんだん大ごとになってきた。私の傘は一体どこに行ってしまったのだろうか。果たして見つかるのだろうか。
 
 駅長が全ての駅に電話を終える頃にはお昼の12時を過ぎてしまっていた。駅長が親切にも一つ一つの駅に私の傘の特徴を伝えていたせいだ。それに加えて例の話し好きの性格が発動し、どうでもいい話を向こうの駅の人と話していたみたいだ。ただ、向こうの駅の人達の反応は分からなかったが、邪険にされているわけではなさそうで、それはきっと人柄のおかげだろう。それでも、恐らくはたかが傘くらいで、とほとんどの人が思っているのに違いない。そして、その間私はというと、ぼんやりと椅子に座って壁に掛かっている標語とか路線図を眺めていた。私以外のお客は一人も来なかった。
「すみません、何だか大ごとにしてしまって。もし見つからないのであれば、もう諦めますので」
 駅長が全ての駅への電話を終え、私に見つからないと申し訳なさそうに告げた時、私はすぐにこれだけを言い、立ち上がろうとした。すると駅長は勢い良く私を押しとどめた。
「ちょっと待って。今全部の駅に電話して、その人達も他の路線の駅に聞いてみるって言ってくれたから。もしかしたら、別の路線に乗り換える時に預けてしまったのかもしれないし。そういうケースもないわけじゃないから。だからもう少し待ってくれない?」
「でも」
「傘の忘れ物って誰も取りに来ないのよね。毎日何百本って忘れられていくのに。そんな中で幸子さんが自分の傘を取りに来てくれて、私はとても嬉しく思ったの。世の中にはまだまだ物を大事にしてくれる人がいるんだってことを知れたから。
 ああ、もうこんな時間なのね。お腹空いている? 何か出前でもとりましょうか。何がいい? カツ丼とか? 冗談よ。ちょっとさっき取り調べみたいなことしちゃったから何となく言ってみただけ。うどんとかでいい?」
 もう何でもいいやという気持ちになってきた。この駅長には何を言っても聞いてくれそうにない。全てを委ねてしまおう。私は月見うどんを頼み、お金を払おうとする。駅長はニッコリと笑って、「奢ってあげる」と言ってくれた。その笑顔に逆らう気持ちも起こらず、「ありがとうございます」とだけ伝え、私は会社に今日は休むということを言うために電話をした。上司は半ば呆れ半ば怒っているようだったが、私が
「有給はまだかなり残っておりますし、今日は急ぎの仕事はありませんので」
とだけキッパリと述べると、それ以上は何も言ってこなかった。もうどうにでもなれだ。これで最悪仕事がクビになってしまっても、それはそれで構わない。今頃社内で何と言われているのだろうか。黄金の傘を持ち歩く女、とでも呼ばれているのかもしれない。
 
 お昼ご飯のうどんを食べながら(駅長は結局カツ丼を頼んでいた)、駅長の話を色々と聞かされた。私と同じくらいの歳の離れた妹がいること、電車が好きでこの会社に入ったこと、初めは女性ということであまり待遇が良くなかったこと、などなど。私は適当に相槌を打ちながら、うどんをすする。
「女っていうだけで、闘わなきゃいけない場面が十は増えるわね」
 駅長が楽しそうに言う。それについては同意する。彼氏に言うといつも笑われるが、私達はいつも余計な闘争に巻き込まれている。男であれば闘わなくてもいい場面で、闘うことを強いられている。もちろん、逃げ出そうと思えば逃げ出せるのかもしれない。しかし、それは敗北を認めることになる。自分の中でそのことだけは許されない。
 
 午後は駅長と二人でお茶を飲みながら、山手線ゲームをしたり(当たり前だが私のボロ負けだった)、人生ゲームをしたりして時間を潰した。人生ゲームでは駅長が教師になり、私は医者となった。現実ではあり得ない職業に少しおかしく感じる。私は血を見るのが大の苦手なのだ。駅長は教師という職業に就いた時、笑顔は崩さなかったが、少し不満そうであった。何か嫌な思い出があるのかもしれない。
 こんなにものんびりとした一日を過ごすのは本当に久しぶりのことだった。仕事もスマホゲームも読書もしなかった。会社が休みの日ですら、溜まっている家事をしたり、仕事に関する勉強をしたりして、いつも何かに追われているような気持ちになるのに。
「さっちゃん」
という声が背後からして振り向く。彼氏が来ていた。私がメールで、電車に傘を忘れて会社を休むことを伝えたら、わざわざ仕事を早退して駆けつけてきたらしい。どうした。優しいではないか。
「傘を電車に忘れたんだって。まだ見つからないの? 大丈夫?」
と彼氏は心配そうにそう私に尋ねてくる。大丈夫に決まっているではないか。傘を忘れただけだよ。たかが傘だよ。なのに、どうしてそんなに、どうしてそんなにも優しいの?
 気がついたら自分でもよく分からないまま私は泣き出していた。こんなにも優しい世界があったなんて。知っていたはずなのに、随分と忘れてしまっていた。彼氏は私に近づくと、そっと肩に手を添えてくれ、そのあとハンカチを渡してくれた。気障すぎる。それに、ハンカチを持ち歩くような男はマザコンに決まっている。しかし、私は泣くことを止めることができなかった。
 
「幸子さん、あなたの傘が見つかったって」
 彼氏も交えて三人で人生ゲームをやっている最中に電話がかかってきた。彼氏はタレントに、私は政治家に、駅長はスポーツ選手になっていた。時計はもう17時を回っていた。
「本当ですか!? 一体どこに?」
「それがね……」
駅長が口ごもる。ここまで来て勿体つけないで欲しい。どこにでも向かおうではないか。
「どこなんですか? どこでも大丈夫です。取りに行きます。教えて下さい」
私がそう言うと、駅長は観念をしたように私にこう告げた。
鳥取県なの」
 
 何ということだ。え、鳥取県? 鳥取県ってあの砂丘のある鳥取県? 島根県じゃなくて? というか、鳥取と島根ってどっちがどっちだっけ。未だに混乱する。そうじゃなくて、鳥取県? なんでそんなところに。
「ごめんなさいね。たぶん幸子さんの傘、多分誰かに盗まれたか間違えて持って行かれて、その人が鳥取まで行ったのね。それでそのまま駅のホームに放置したみたいなの。私の知り合いがホームの監視カメラを解析して、幸子さんの傘らしきものを持っている人を追跡してくれたみたい。残念ながらその傘を持っていっちゃった人の足取りはもう分からなくなっちゃったのだけれど」
 駅長が本当に申し訳なさそうにそう私に伝えてくる。私はそれに対して何と返していいか分からず、硬直してしまった。そんな私の様子を見て、彼氏がこう言ってくれた。
「分かりました。これからさっちゃんと二人で鳥取に向かいます。今から行けばギリギリ夜中には着くでしょう。傘を駅の中に保管しておくよう伝えておいていただけますか? 日帰りは無理でしょうから、向こうを観光でもしてから帰ってきます。砂丘に一度行ってみたかったんですよね。あ、お土産の希望とかありますか?」
 本当にどうした。私は却って不安になって彼氏をじっと見つめる。彼氏はそんな私の視線に気が付き、ニッコリと笑ってくれた。
「大丈夫だよ。俺もまだ有給残っているし、仕事もまだそんなに忙しくなってないし。さっちゃんもまだ有給残っているでしょ? 今年の夏はどこも行けなかったし、ちょうど良かった。たまには二人でのんびり旅行をしよう」
 私はもう何も言えなくなって、もう一度泣き出してしまった。そんな私を見て、彼氏はポケットティッシュを渡してきた。鼻セレブだ。吐気がするほど気障すぎる。
 
「本当に何から何までありがとうございました」
「いいのよ。気をつけて行ってらっしゃい」
 まるで長い旅に出る前のような見送られ方だ。心なしか、駅長も少し涙ぐんでいるようだった。
「私、こんなに幸せな一日を過ごせたのは生まれて初めてです。傘を忘れてしまった時は、最悪な気分でしたけど。世界って案外悪くないですね」
 私がそう言うと、駅長はニッコリと笑った。結局この人は最後まで笑顔を崩すことがなかった。
「さっちゃん、急ごう。今日中に着かなくなっちゃう」
「うん」
 彼氏に手を引かれて私は駅長室のドアを抜ける。最後にもう一度だけ後ろを振り返って、駅長室に向かって頭を下げた。
 
 鳥取県に行ったところで、私の傘がすぐに手元に戻ってくるかどうかは分からない。いや、返ってこない可能性のほうが高い気すらする。毎日がそう良い日だとは限らない。もしかしたら、傘は私のことを嫌いになってしまったのかもしれないし。傘も砂漠に行って一人で何かを考え込みたい日もあるだろう。でもきっと大丈夫だ。私はもうどこにでも行くことができるから。