日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

言語について(2008年12月3日の文章を再録)

 
 これは本当に散らかった文章です。
 ちょっと備忘録というか、自分の頭の中を取り留めもなく書き綴る。
 言葉について少し考えてみた。
 そのうちウィトゲンシュタインノーム・チョムスキー辺りを読む。頑張る。
 Wikipediaだけを見ていて満足してはダメだ。
 
 言葉の力というと、一昔前の朝日新聞の広告のようだけど、言葉にはどれほどの力があるのだろうか。
 私は絵が描けない。描けないってことはないと思うが、写実的な絵を描くのがとても苦手だ。小学校の頃からずっと。観察力が足りないからだと父親には言われた。何かを伝える時に話すか文章を書くということになるが、それは絵を描くことよりもずっと遠回りのように感じる。
 呪いのビデオで有名な「リング」の続編に「らせん」という話があって、その中に映像の情報量の話が出てくる。ネタバレになってしまうけど、呪いのビデオは貞子の遺伝子情報が入っているという説が出た時に、主人公の友人が「ビデオに遺伝子情報を入れることが可能だと思うか?」と主人公に聞く。それに対して主人公は「不可能だ。人間の遺伝子の情報量は膨大だから」と否定する。そこで友人が「例えばこの部屋の中にある情報を、文字で書き表すと、どれくらいになるか?」と聞いてくる。主人公はそれに対して「それも膨大だ。本棚にある本のタイトルを記すだけでも何ページにもなってしまう」と応え、それを聞いた友人は「だけど、パシャリと写真を撮ってしまえば一枚で済む」と返す。つまり、人間の遺伝子の情報量は膨大だが、写真の連続である映像の力を借りれば難なく全てを表現することができるだろうという考えだ。関係ないけど、全てを表現するというワードで、百科事典棒の話を思い出した。
 素晴らしく海を表現した詩を知っている子供と、実際に海を見たことがある子供、どっちが海についてきちんと知っていると言えるだろうか。あるいはどちらが幸福か。
 高校の同級生の岩崎君が、「言葉で表せないものを音で伝えるのが音楽であり、言葉で表せないものを絵で伝えるのが絵画だ。じゃあ、文芸は? 文芸は言葉で表せないものを言葉で表すものだ」と言っていた。これはどこまで信じることができるだろうか。
 あるいは、抽象的概念や感情、「優しさ」や「嬉しい」などは言葉で表すしかないだろう。だが、そこに生じるのは単なる言い換え、「優しい」というのはとある行為の結果に対する評価であり、「嬉しい」は脳が興奮した時の現象を言い換えているだけに過ぎない。全ての形容詞は現象として言い換えが可能か?
 物心がついたのはいつだろうと思う。最古の記憶は? 記憶は言語と密接に関わっているはずだ。ならば、自分の中である程度の言語体系が確立されてから記憶というものができて、意識が発生したのだろうか。つまり意識が生じるとは、すなわち言語の獲得そのものを表しているのか。人工知能は言語を獲得すれば、意識が発生しているのか。しかし、最古の記憶は何も言葉を知らないときではなかったか? あるいは祖母の背中におぶさっていた記憶。中国語の部屋については? しかし、中国語の部屋の中にいる人はマニュアルを「理解」しているはずだ。その「理解」というのはどのように定義されるのか? コンピューターは質問に対して決められた回答をするが、それはそのようにプログラミングされているからに過ぎない。中国語の部屋にいる人の「理解」とコンピューターの「理解」に違いはあるのか。
 
 「言語的相対論」というのがあって、「サピア=ウォーフの仮説」とも呼ばれているが、これは「言語が思考を決定付ける」という説だ。強い仮説と弱い仮説があるらしく、強い仮説は「言語によって思考は決まってしまう」というもので、弱い仮説は「決定はしないが、言語が異なれば思考に影響を与える」というものだ。強い仮説の方は「すべての思考は言語によって決定される。つまり言語の無い思考など存在しない」という考えだが、弱い仮説の方は「非言語的な思考まで存在を否定しているのではなく、その存在を認めた上で言語が思考の内容に一部影響する」という考えだ。
 強い仮説の方は実験によって否定されているらしく、例えばニューギニアのある部族では色に付いての言葉は濃いと薄いしかないけれど、濃い色の赤と青については同じ色ではなく違う色として認識できた、ということから否定できるらしい。これは何となく合点がいく。
 弱い仮説の方は心理学的な実験で「証拠はないけれど、ある程度言語の違いによって認識への影響が生じる」ということが分かっているらしい。つまり言語は認識へ影響を与えうるということになる。
 じゃあ、やっぱり言語によって思考は変わるのだ、となるのか。思考は何を由来として形作られていくのだろう。そういえば、自由意志による意思決定って否定されたのだっけ。人の行動のほとんどは無意識によるものだと。
 
 やはり散らかっている。思考が。これも言語か。
 多分、言語哲学とか心の哲学の分野なんだろうけど。うーん、全然理解していない。理解できる日は来るのだろうか。大学にもう一度行きたい。
 昔、言語について文章を書いたことがあってそれを最後に載せます。
 
参考
 
「言語によって思考が決まる?言語相対論/言語決定論/サピア・ウォーフ仮説における意味の違い、批判、経緯」
 
 
「言語的相対論」
 
 
 
ここから昔の文章で、かなり厨二病が入っています。2008年12月3日の文章だって。9年前。あれから何も成長していない。
 
こんなことやって何になるのかっていうのは多い。分からない。そんなのばっかりなのかもしれない。だが、誰かが意味を見いだしてくれるわけではない。たとえ誰かが意味を見いだしてくれても、それに頼るのは危険なのだ。自分で意味を見いだしていかなくては。世界中の人間が無意味だと言っても。なぜなら、自分の人生を生きている、自分の人生を操っているのは、自分自身であるのだから。きっと。
 
レポート? 案外式を代入するだけじゃすまない。そんな高校生みたいなことはない。もっと解析的にやらないと。
 
研究が好きなのだろうか? どうだか。それに飛び込めるか? 解析に解けるか? 理論的に、論理的に。まあ、言葉遊びはいい。
 
その時何を考えていたかは、その時に書く必要がある。
 
分からない。何を考えていたのだっけ?
 
思い出した。ありふれた話。
 
我々は思いを伝えるのに日本語を使っている。もし、英語しか話せない人に思いを伝えなくてはならないのならば、英語を学ばなくてはならない。
 
しかし、それは「正確さ」という点では劣る。何をもって正確と呼ぶかという疑問はあるが。言葉を知らない赤ん坊でさえ、相手に嬉しいという感情を伝えることはできる。笑いかけることで。しかし、それはどの程度嬉しいのか、なぜ嬉しいのか、ということを伝えるままではいかない。そう言った意味で言葉を使って何かを伝えるのは、便利でより正確であると言えると思う。もちろん言葉を駆使しても相手に自分の気持ちを正確に伝えることはできないかもしれないし、そもそも言葉がなくてもよいのかもしれない。言葉は不自由なのだろうか? だいたい自分の本当の気持ちって何だ? この感情に名前を付けただけだろう。相手に伝えやすくするために、相手と思いを共有するために。あるいは自分自身に伝えるために。
 
名前。言葉もそうだが、名前はなぜある? 今書いたばかりだ。相手と共有するため。そのため。思いを。自分の考えを。そのもの自身を。全てか? 全てを言葉にできる? できない? 相手と共有するためには共通のもので表すのがよい。名前。これは? 手。これは? 足。これは? 体。これは? 頭。これは? 熱い。これは? 寒い。犬、猫、家、空、地面、地球、宇宙、心、神?? 分からない。
 
言葉は枠でもある。枠組み。囲ってしまうのだ。そうすることで、誰もが見やすくなるから。動物園の名札と一緒だ。この檻には虎がいる。虎以外のものには誰にも興味がない。大体、際限なく細かく見ていければ、結局は素粒子で表されるし、巨視的に見ていけば宇宙に行き着く。
 
何が言いたい? 枠組みを作るのは確かに楽なことだ。だが、限界を作ることにはならないか? それはないか。それを決めるのは人か。新しいものには新しい名前を与え続ければいいのだ。言葉が無限に存在するのならば、僕らは無限に名前を与え続けられる。無限に。迷うことはない。誰かが百科事典にまとめればそれでデータベースはできる。より正確に、細分化すればいい。自分の考えも段階に表せばよい。感情を正確に測る装置を作ればよい。なんらかの物質で。「あるもの」だけで論じればよい。その量を量るのだ。そして絶対値で割ればよい。それで済む。万人が納得しない? 定義を作ればよい。枠を作ればよい。そしてそれを共有すればよい。納得するか納得しないかの問題ではない。「そう決めて」しまえばよいのだ。言語間の相互変換ができない? ああ。そうだ。「不必要なもの」に名前を付ける必要はない。効率化のためか? きりがないからか? 言葉は増えると同時に減っていく。忘れ去られた言葉はどの程度あるのだろう?
 
いつか……。いつか言葉で真理にたどり着けるのだろうか? 言葉の力だけで。不可能? 言葉は無限だ。きっと。僕らがそう信じ続ければ。ただ、そんなこと信じている人はいないだろう。なぜなら、世界を人間の力で記述し尽くすには、人間は非力すぎるから。みんなそんな風に思っている。思ってないかも。俺だけか。でも人間の限界は、きっと言葉の限界。人間は言語を用いて、生きてきた種だから。言葉をしゃべれない人は? その人は種として人間とは違うのだろうか。そんなことはないはずだ。僕らがきっと仲良くできるだろう。
 
人間の限界。いつか真理に手が届くことが出来ても、言葉の力だけでそれを手にするのは難しいのかもしれない。だからどうするか? その時はまた新しい種族が誕生する時かもしれない。言葉ではない何かを使って僕らは生きていくのかも。それが今なのか、そしてそれは何なのか? 全く想像つかないけど。