日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

月の魚(短編小説)

 月にいる魚のことに気付いたのは二人の少年少女だった。
 少年は日本人だった。小学校の自然教室で、夜空を観察しているときに月にいる魚を発見するんだ。もちろん、すぐに先生やクラスメイトに知らせた。
「先生! 月に魚がいる!!」
 ってね。まあ、もちろん先生は取り合わない。
「月にいるのはウサギですよ」
 ってな感じで。周りのみんなも
「そうだよ、そうだよ! 嘘つくな!」
 って信じない。
 でも、少年はハッキリと魚を見た。その上、少年は不幸なことにまじめだったから、こう考える。
「いつか僕が月にいる魚を捕まえるんだ!! そしてみんなを驚かすんだ!」
 ……世界中にあふれてる、取り留めもない夢がまた増えたわけだ。
 
 その12時間後に日本の真反対ある国……、えっと、ブラジルとかペルーかな? まあ、その真反対にある国にいた一人の少女も月にいる魚に気付く。少女も同じように叫ぶ。
「月に魚がいる!」
 ってね。まあ、もちろん周りは、その時はその娘のお母さんが一緒にいたんだけど、信じやしなかった。それにはまた違った理由があるんだけどね。その少女は生まれつき目が見えなかったんだ。だから当然お母さんは信じなかった。大体その少女は月を見たことすらないはずだからね。
 少女は一生懸命お母さんを信じさせようとした。
「ほら見てよ。あっちの方向よ!」
 確かにその方向には月があった。まあすごく賢い子だったからね。月の方角くらいは目が見えなくても知っているんだ。でも、お母さんが見てみても、魚なんて見えやしない。ただ月はいつも通り、世界中のどの場所と同じように、ぽっかりと浮かんでいるだけだった。
 
 月日は流れる。少年と少女は大人になった。少年はあまり勉強はできなかったけど、一応それなりの会社に入って、それなりに働いていた。
少女はすごく頭が良くて、それは一度聞いたことをすぐに理解できて、そして決して忘れないってくらい頭が良かったから、目が見えなかったんだけど、特例で大学に行くことが許された。そして、大学を卒業したあと、お母さんに助けられながら、お金持ちの子供達に勉強を教えたり、本を書いたりした。本はそこそこ売れたし、生活は幸せだった。
 でも、少年の方は不満ばかりだった。さっきも言った通り、それなりの会社でそれなりに働いていただけだからね。少年の不満は日々募るばかりだった。少年はある日決心する。旅に出ることを。つまらない日常から逃げ出すために。少年自身は逃げ出すなんて意識なかったんだけどね。
 少年は幼い頃に見た月にいる魚を捕まえるために旅に出た。でも、魚は月にいるわけだし、宇宙船を持ってでもいない限り月には行けなかった。もちろん少年は宇宙船なんて持ってなかったからね。
 少年は悩んだ。悩んで悩んで、ある結論に達した。
「そうだ、こっちから出向くんじゃなく、あっちから出向いてもらえばいいんだ。ずっと月を追い続ければ、いつかあっちも気づいてくれて、こっちに来てくれるかもしれない」ってね。
 それから、少年の月を追う旅が始まった。正確には月にいる魚を追う旅なわけだけれど。つまり、ずっと夜を追い続ければいい。月はものすごく早く移動するから(現れてから消えるのに、どんなに長くても12時間くらいだから)、追い続けるのにはとても苦労した。月が現れたらひたすら追い続け、消えたら休んだ。だから、夜起きて、昼間は眠る生活が続いた。雨が降って月が見えない夜も、いつか晴れることを信じて見続けた。
 旅は想像していたものよりずっとずっとつらいものだった。何度も諦めようと思ったくらいだ。夜にしか起きないのだから、何日も太陽の光を浴びられなかったし、そのうち飲むお酒の量も増えていった。そうしないと昼間寝れなかったからね。体も心もぼろぼろだった。それでも少年は諦めなかった。それくらい「少年が見てきた夢」は愚かしいものだった。
 
 少年はある日少女が住む町に着く。旅立ってから一年以上経っていた。この町は海の近くで、ここから月を追い続けるには船を手に入れなくてはならなかった。少年はそれにずいぶん手間取った。なかなかいい船が手に入らなくってね。仕方ないので、少年はその町で少し休むことにした。もちろん、月を見続けることはやめなかったけど。暗いところで生活し続けたせいで、目もあまり見えなくなっていた。それでも少年は月を見続けた。何度も何度も見続けた。さっきも言った通り、少年は余り目が見えなくなっていた。でも、月にいる魚は、どんどんはっきり見えるようになっていた。まるで、その存在が目の前にあると確認できるくらいで、絵に描こうと思えば描くことができた。少年の中で魚は目に見えるもの全てよりも確信が持てる存在だった。
 
 そして二人は出会う。
 
 そのとき少年は港にある埠頭でぼんやりと月を眺めていた。最初に気づいたのは少女だった。少女は母親に頼まれた買い物を済ませて、家に帰る途中だった。そのあたりはあまり治安のいい場所じゃなかったから、急いで家に帰ろうとした。そのとき少年に気づいて、注意してあげようと思ったんだ。
「こんな時間までここにいると物騒ですよ」
 ってね。少年はチラッと顔を上げたけど無視をした。
「何を見ているんですか?」
 少女は尋ねてみた。こんな時間に港でたたずんでいる人間なんて、海を見ているに違いない。少女はそう考えたんだ。
「月」
 少年は答えた。
「月ですか?今日は満月ですからきれいでしょうねえ」
 そこで少年は言葉の違和感に気づき、ようやく少女が盲目あることに気づいた。
「きれいだよ。見事な満月だ」
「そうですか。私は何が美しくて何が醜いかよく分からないんですよ。それでも、月はこれだけ人々を魅了し続けたのですから。それは私が想像できないくらい美しいのでしょうね。まあ、私は何か目に見えるものを、それの形どおりに想像することはできないんですけど」
「まあね。確かに月はきれいだ。でも、世の中には目に見えるものだけが全てではないし、誰の目にも見えなくても美しいものが確かに存在する」
「なるほど。でもそれも目が見える人の勝手な言い分な気がしますけど」
「まあ、そうかもしれないけどね。でも、目に見えない美しいものは確かに存在するんだ。それは月なんかよりもずっとずっと美しい。形はグロテスクで、孤独で、そして僕を魅了して離さない」
「ふうん」
 少女は月の方角を見た。そこには昔と同じく、魚がいた。誰の目にも見えない、目の見えない自分だけが見え、自分が知っている唯一の美しいもの。それは、形はグロテスクで、孤独で、そして少女を魅了して離さなかった。
「では、私はそろそろ帰ります。あんまり長くいないほうがいいですよ。この辺は物騒ですから」
「分かった。ありがとう」
 
 二人は別れた。そして、もう二度と出会うことはなかった。
 
 少年は何とか船を手に入れ、また旅立っていった。そして、太平洋を横断している途中で遭難し、力尽きて死んだ。船は沈んで、遺体は発見されなかった。多分死体は魚が食い散らかしたのだろう。船が沈んだ場所は、故郷の日本にあと少しのところだった。
 
 少女はその後、勉強を教えていた子供のお父さんに見初められて結婚した。その男の人の前の奥さんは、子供が生まれた後すぐに病気で亡くなっちゃって、男手一つで子供を育てていた。男の人は会社を経営していて、最初のうちはいろいろ苦労したけど頑張ってそれなりに大きい会社にした。少女は結婚した後その会社を手伝うことにした。少女が手伝い始めてから、会社はさらに大きくなっていき、世界でも有数の会社になっていった。少女はお金に苦労する心配がなくなったし、それどころか世界でも指折りの資産家となっていった。
 
 また月日が流れた。少女はもう少女と呼べる年齢ではなくなっていた。
 そんなある日、民間人が月に旅行に行く計画が持ち上がった。その話を聞いて少女は長らく忘れていた月の魚ことを思い出した。最後にあれを見たのは少年と出会ったときだった。
 少女は月に行き、魚を捕まえることを決心した。もちろん、その計画には莫大なお金がかかったけど、少女にとってはそれほど大変な額でもなかった。
 
 そのころには、宇宙技術もだいぶ進歩していて、月の好きなところに着陸できた。民間人が月に行く時代だからね。アポロ時代には考えられなかったことができたわけ。
 少女が指定した着陸先は「静かの海」だった。まあ、ここはアポロ11号が着陸したところだし、比較的オーソドックな着陸場所ではあった。だから、何の苦労もなく、そこに着陸することができた。
 
 月は何もなかった。「海」という名前がつけられてたが、水はなかったし、空気もなかった。砂と岩しかなく、砂はどこまでも真っ白で、岩はただただ灰色だった。植物や動物なんかの生命の欠片もなかった。何の音も聞こえなかったし、何の香りもしなかった。太陽が当たっているときは真夏より暑いのに、太陽が当たっていないときは真冬より寒かった。静かで何もない空間が広がっていた。人が生きていくには苛酷な環境だった。それは少女にとっても同じだった。
 
 そして、そこに魚はいた。
 
 少女が見た魚は、猫背で、尾が長く、色は赤だった。それは目に見えるどんなものより美しかった。グロテスクな形をしていて、孤独で、少女を魅了して離さなかった。
 
「ああ、ようやく会えた」
 少女はつぶやいた。この魚に出会うために自分は生きてきたのだと思った。
 
 もちろん周りの人たちにはその魚は見えてなかった。人々は、月の光景に夢中だった。月は遠くで見ていたときとはぜんぜん印象が違っていたけど、それでも美しかった。
 月の光景に見飽きた人々は、今度は地球を見た。地球は人々が見てきたどんなものよりも美しかった。今まで目に見ることのできなかったものをようやく見ることができたわけだ。地球上にいる限り、地球をその目で見ることはできないからね。その美しさに人々は思わず歓声を上げた。
その声を聞いて、少女もその方角を見た。その方向には地球が存在するはずだった。確かにそこに地球は存在した。しかし、少女は目が見えなかったから、地球を見ることはできなかった。その代わり、いままで、目に見ることのできなかったものを見た。今まで、地球上にいたせいで見ることができなかったものを見た。
 
 それは少年が海の上で魚と泳いでいる光景だった。「海」は「海」という名前がつけられてたから、水があったし、大気中は空気が当たり前のように存在していた。砂と岩もあったけど、植物や動物はいたし、音があふれ、金木犀の香りがした。太陽が当たっているときは暑いし、太陽が当たっていないところは寒けど耐えられないほどではなかった。人が生きていける環境だった。それは少女も同じで、そこでないと、生命はみな生きていけなかった。
 
 少女は初めて知った。これが世界の美しさなんだと思った。初めて知った「目に見える」美しさだった。それはグロテスクではなく、そこに孤独なんて存在しないように見えた。しかし、美しかった。今まで、想像していた何よりも美しかった。
「ああ、私はこれを探していたのか……」
 少女はつぶやいた。
 
 地球に帰る時間が迫っていった。みな宇宙船に入っていったし、同行の人の一人は少女の手を連れて宇宙船に入ろうとした。
しかし、少女はかたくなに動かなかった。
「どうしたの?地球に帰るよ。急がないと宇宙船が発射しちゃうよ」
 同行の人が言った。
「いいんです。私はここに残ります」
「残るって、なに言ってるの? ここには何もないのよ。こんなところ、一時間もいれば死んじゃうわよ」
「分かってます。それでも残りたいんです」
「馬鹿なこと言うんじゃないの!! いいから早く来なさい」
「いや、ほっといてください。私はここに残るって決めたんです」
 少女は頑として動こうとしなかった。同行の人は説得を諦め無理やり連れて行こうとした。しかし、少女は動かなかった。まるで、目に見えない何かが少女を支えているようだった。
 そうこうしていくうちに、出発の予定時刻までもう時間がなくなっていた。早くしないと、太陽があたりを照らして、灼熱の地獄になってしまう。そうなったらお終いだ。
「もう、じゃあ、本当に置いていくから。知らないわよ」
「はい。本当にごめんなさい。ありがとうございます」
 
 宇宙船は旅立っていった。少女は一人残された。周りには何もなかった。目が見えようが見えまいが、あまり意味のない光景が広がっていた。音すらなかった。
「あなたはずっと一人だったのね」
 少女の声だけが、そこには存在した。少女は魚を見、そしてもう一度だけ地球の方角をみた。その後ゆっくりと目をつぶった。