日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

ロシアンタクシー(短編小説)

 その日、僕は初めてロシアンタクシーに乗った。
 普段僕はタクシーには乗らない。職場には電車で行っているし、休日にどこかへ行く時も、大概は電車か車で行っている。しかし、その日は残業をしてやらなければならない仕事があり、仕事が終わった時にはもう夜中の二時を過ぎていた。当然終電の時間はとっくに過ぎ去っていた。
 僕は仕方なく、会社の近くでタクシーを待っていた。季節はもう秋の終わりで、かなり肌寒くなっており、僕はタンスから出したばかりのコートを羽織り、腕を体にまわしながらタクシーを待っていた。会社はそこまで都心に近い場所にあるわけではないので、タクシーが来る可能性はそう高いとは思えなかった。しかし、家まで歩いて帰るわけにはいかないし、このまま会社に泊まるのも嫌だった。僕は、家に帰り、ゆっくり風呂に入って、自分のベッドで眠りたかったのだ。
 そんなわけで、タクシーが僕の目の前を通った時、僕は迷わず手を挙げた。もちろん僕も職場などでロシアンタクシーの噂は耳にしていた。でも、僕はあまりタクシーに乗らなかったので、自分には関係ない話だと思っていた。それに、噂はお世辞にも信憑性が高いとは言えず、僕はその噂を本気にしていなかった。大体噂によると、ロシアンタクシーは外見からじゃ判断できないと言うことだった。だから、その時来たタクシーがロシアンタクシーだなんて判断は出来なかったし、まさかロシアンタクシーだなんて夢にも思っていなかった。
 
 ロシアンタクシーの外見自体は他の一般的なタクシーと何の違いもなかった。よくある、黄色のタクシーだ。ここまでは噂と同じだった。
 だが、タクシーに乗り込んだとたん、その独特の雰囲気に気付かないわけにはいかなかった。タクシーの中の様子も普通のタクシーとなんら変わりはない。しかし、そこにはロシアンタクシーがロシアンタクシーであるための独特の空気が漂っていた。噂でしかロシアンタクシーの話を聞いたことがなかった僕だが、中に入ったとたん、自分が乗り込んだタクシーはロシアンタクシーだったのだと気付いた。
 一瞬僕はタクシーを降りようかと悩んだ。しかし、一度乗り込んでしまったし、また会社の近くでタクシーを待ったとして、もう一度タクシーが通りかかるのは絶望的だと思えた。また寒空の下、来るか来ないか分からないタクシーを待つわけにはいかない。僕はさっさと帰って、すっかり冷え切った体を温めたかったのだ。
「お客さん、どちらまで行かれます?」
 タクシーの運転手がそう尋ねた。彼の声は少し神経質っぽくて、またどこか悲しげだった。
「○○町の交差点までお願いします」
 僕は家の近くの交差点を答えた。会社からは少し遠い場所にあるのだが、運転手は何も聞き返さずに車を発進させた。
 タクシーの乗り心地は悪くなかった。運転手は運転が上手く、乗っている間全く振動を感じなかった。嫌な匂いもしなかったし、もちろんロシアの音楽が流れているわけでもなく、静かなタクシーだった。運転手は五十代後半か六十代初めくらいの男で、髪はストレートで、見事なほど真っ白な髪をしていた。顔は少し白く引き締まっていて、眼鏡をかけていた。目尻に少ししわが見えた。優しそうな目だった。
 初め、男は何も話しかけてこなかった。僕も何か話しかけるということはなく、無言の空間と時間が、雪が降った冬の朝のように車内に漂っていた。僕は何をするでもなく、ぼんやりと外の風景を眺めていた。外はもう真っ暗で、人間も動物も植物も建物も何もかも、みんなぐっすりと眠りについていた。世界は……、少なくともこの街は今平和なのだな、と僕は思った。
 
「お客さん、“シベリア出兵”って知っていますか?」
 突然運転手が話しかけた。僕はうとうとしていたから、少しびっくりした。最初、彼が何を言っているのか分からなかった。
「“シベリア出兵”ですか?」
 僕は彼に聞き返した。
「あ、起こしちゃいました?ごめんなさいね。“シベリア出兵”を知っているか尋ねたんです。でも、気にしないでください。たいした話ではないから」
 彼はそう言ったが、僕の眠気はすっかり吹っ飛んでしまった。シベリア出兵? 何を言っているのだろう、この男は?
 僕は高校の頃、世界史を勉強していたので、シベリア出兵のことは教科書程度の知識なら知っていた。僕は彼に答えた。
「“シベリア出兵”のことなら知っていますよ。第一次世界大戦のあとに、日本やアメリカなどがシベリアに出兵したのですよね?確かロシアに対して牽制する目的があったとか……」
 ここまで言って、彼がなぜシベリア出兵ことを聞いてきたのかが分かった。
「その通りです。お客さん、若いのになかなか博識ですね。じゃあ、お客さん、“シベリア出兵”に招集されて、シベリアに行かされましたか?」
 この質問はどう考えても愚問だった。シベリア出兵は1919年から1924年の出来事で、もう八十年以上前のことであったし、その時代僕の祖父母すら生まれていない。
「行ったことあるはずないよ。だってシベリア出兵って八十年以上前の出来事でしょう?そんな大昔、僕はおろか、僕のおじいちゃんやおばあちゃんすら生まれていないよ」
 僕がそう言うと、彼は例の悲しそうな声で答えた。
「そうですか……。もう八十年も昔の話になるのですか。もう、そんなになるのか……。
 いえね、お客さん。私はシベリア出兵に参加したのですよ。信じてくれないと思いますけどね。でも、これは確固とした事実なんです。誰が何と言おうと、誰も信じてくれなくともね。私は今でもまぶたを閉じればシベリアのあの全てが凍りついた景色が思い浮かぶし、死んでいった戦友の名前も全員覚えています」
 僕は何も答えなかった。ただ、黙って彼の話を聞いていた。
「本当にね、あそこは寒くて仕方ありませんでしたよ。夏はまだいいんですが、冬は最悪でしたね。気温は摂氏零度を超えることはまずない。吹雪の日など、周りは何も見えません。何もかもが凍りつくんです。人も動物も植物も家も山も川も湖もね……。
 あまりの寒さに死んでしまった兵士も多くいました。防寒具だって暖房設備だってほとんどないようなものでしたから。戦闘で死ぬなら良いですよ。あっという間に死ねますから。それに、まだ“兵隊としての意味”がありますからね。でも、凍死というのは本当に……、あれは人間の最悪な死に方の一つですね。朝起きたら、隣で寝ていたやつが死んでいたなんてこともありました。青白い顔をしてね。どうせなら、心が凍りついてくれればまだ楽だったでしょう。でも、心というのは凍りつかない。みんな心を持ったまま体だけが凍りついて死んでいくんです。死ぬならね、暖かいところに限りますよ。そりゃ、灼熱の砂漠で水を求めながら死ぬのも嫌ですけどね……。でも、全てが凍るような寒い土地で死ぬよりは断然マシです」
 彼が嘘を言っているようには思えなかった。彼の目はどこまでも真剣であり、彼の言葉には真実味があった。それでも僕はその話を簡単に信じることは出来なかった。なんといっても、“シベリア出兵”はもう八十年以上前の話なのだ。
「“死”の良いところはね、全ての人間に対して平等なところですよ。よく世間ではこう言われていますがね、なかなか実感できるもんじゃありません。私は、シベリアに行ったことでこれを肌で実感しましたよ。なにせ、周りでばたばた人が死んでいくのですからね。
 良いやつにも、悪いやつにも、強いやつにも、弱いやつにも、みんなに平等に死が訪れましたね。良いやつが最終的に生き残るなんて、映画みたいな話はないです。死は誰に対しても平等に、残酷的に、あっさり訪れます。体が強いやつが生き残りそうですけど、全くそんなこともありません。いくら強くても、あの寒さの中では関係ないです。どんなに意志が強くても、関係ないです。結局生き残るのは……、“運が良いやつ”でしょうか?神様に愛されたやつだけが生き残るのかもしれません。私はあまり神様を信じていませんが。
 誰が死のうともね、立ち止まることはないです。吹雪の中、行進を続けるんです。それが兵隊の役割ですからね。行進の途中で倒れるやつもいます。そういうやつは、もう手遅れのことが多いです。一応診断しますが、大体がすぐに死んでしまいますね。それで、私達はそこに死体を置き去りにするんです。そして、それでも私達は行進を続けるんです。決して立ち止まりません。それだけに意味がありましたからね。いや、意味なんて本当はなかったのかもしれない。でも、歩みを止めるわけにはいかなかったのです。友の死体を踏みにじりながら、私達は行進を続けていたのです」
 彼は、そう話し終えるとゆっくりと深呼吸をした。
 
 僕は、その光景を思い浮かべてみた。
 吹雪の中、行進を続ける兵隊達。誰の顔にも疲労が浮かんでいる。最後に満足に食事を摂ったのはいつだろう?防寒具、ブーツ、銃、そして雪。それらの重さが彼らの歩みを限りなく遅くする。もう立ち止まりたい。しかし、立ち止まるわけにはいかない。彼らは兵隊であり、兵隊の役割は行進することなのだ。
 そのうちに、誰かが倒れる。そして、誰かが抱き起こし、声をかける。しかし、返事はない。上官が放っておけという。死体は、雪の中に置き去りにされる。雪が彼の体の上に積もっていく。彼の体は誰にも発見されることなく凍っていく。それは不幸ではない。なぜなら、彼の心はすでに失われているのだから。
 僕だったらどうだろう? 僕は、雪の中に倒れ込む。誰かが僕を呼ぶ声がする。しかし、僕はもう返事も出来ないし、立ち上がれそうにない。そうして僕は雪の中に置き去りにされる。僕にゆっくりと死が訪れる。僕は目を閉じる。僕の心はまだ凍らずに機能しているのだろうか? 死はやがて僕を覆い尽くす……。
 だが、僕の想像はそこでストップしてしまった。他人の死というのは何となくイメージできる。しかし、自分の死というのは、死ぬ寸前までしかイメージできない。僕はまだ死んだことはないし、今この時点では生きているからだ。そうして、僕の体はシベリアの吹雪の中で凍っていく。死ぬことも出来ず、心を凍らせることも出来ず……。
  
 僕は無性にたばこが吸いたくなってきた。
 実は僕は三日くらい前から彼女に言われて禁煙をしていたのだが、その時はたばこが吸いたくて仕方がなかった。おそらく、彼の話を聞いたためだろう。彼の話を聞くうちに、自分という存在がバラバラになってしまう気がした。それを繋ぎ止めるためにも僕はたばこが吸いたかった。
 最近は、タクシーの禁煙車両が増えているので、僕は運転手にたばこを吸っていいかを尋ねた。
「すみません、ここでたばこを吸ってもいいですか?」
「ええ、もちろんいいですよ。だって、あなたはお客様なんだし、我々の商売はお客様あってのものですからね。お客様の頼み事をむげには断りませんよ」
 彼の返答はシンプルで、かつ分かりやすかった。僕は安心してたばこを吸った。
 三日ぶりのたばこだ。僕はゆっくりと煙を肺に入れる。そして、しばらく肺に溜め込んだ後、ゆっくりと、ため息と共に煙を吐き出す。たばこを吸うメリットなんてこれくらいなものだ。誰にもばれないように、ゆっくりとため息が吐ける。そう、自分でも気付かないように。ため息は……、僕を摩耗させ、人を摩耗させる。たばこはそれを隠してくれる。そのためだけにたばこを吸うのだ。
「お客さん、昔からたばこ吸っているんですか?」
 運転手がそう質問してきた。おしゃべりな運転手だなと思ったが、ぼくもとりあえずは眠くないし、彼の話はなかなか面白かったので、話に付き合うことにした。
「ええ、大学生の頃からだから、かれこれ七、八年は吸っていますね。実は、ここ三日くらい禁煙していたんですよ。でも、やっぱりなかなか止められないものですね。もともとヘビースモーカーで、一日に一箱から二箱くらい吸っていますからね。」
「そうですか。そんなに昔から吸っていたのですか。一度吸い始めると、なかなか止められないものですよね。でも、そんなに吸っていると近頃の嫌煙ブームはつらいでしょう?」
「そうですね。職場でも、オフィス内では吸ってはいけなくて、喫煙スペースが廊下の端っこに、申し訳程度に設けられているだけですからね。僕はそこで吸うのが嫌だから、大体は屋上で吸っていますけど。でも、町中でもおおっぴらに吸えなくなったし、結構肩身の狭い思いをしていますね」
「そうでしょう。最近は飲食店でも禁煙の場所が増えたし、タクシーですら禁煙車両なんてものがありますからね。タクシーで禁煙なんて何を考えているのでしょうかね? タクシーなんて、本当にお客様あっての商売なのにね。お客様がたばこを吸いたいって仰ったら、わざわざ断るのですかね?そんなので、お客様を不快にさせたらいけないと思うのですよ。タクシーの運転手の端くれとしてね。だって、どうせ乗ってもらうなら、気持ちいい空間と時間を提供したいじゃないですか」
 彼の言うことには一理あった。だが、それは結局ものごとの一方しか見ていなかった。なぜなら、彼の理論でいくと、「たばこが嫌いなお客様には気持ちいい空間と時間を提供できない」ということになる。たばこが嫌いな人は、たばこ臭いタクシーになんか乗りたくはないだろう。
 そんなことを考えて、僕が返事をしないでいると、また彼が話し始めた。
「お客さんが言いたいことは分かりますよ。『そんなこと言ったら、たばこが嫌いな客に対してはどうするのだ?』ということでしょう? 確かにそうです。たばこが嫌いなお客様は多分たばこが吸った人が降りた後のたばこ臭いタクシーになんて乗りたくないでしょうからね。だから、禁煙車両のタクシーなんて、『自分達は嫌煙家の人たちに気持ちのいい時間と空間を提供しているんだ。そのために車内を禁煙にしているんだ』って言いたいのでしょうね
でもね、そんなの所詮言い訳に過ぎないんです。もっと言えば、彼らは努力が全く足りないんです。だって、たばこを吸うお客様が乗ってきたのなら、降りた後、徹底的に消臭すればいいでしょう? それに、普段からもなるべく車内を綺麗にして、嫌な匂いを残さないようにすればよいでしょう?私なんて、いつもそうしていますよ。そうすれば、たばこを吸う人も吸わない人も気持ちよく乗れますからね。私は、どんなお客様にも気持ちよく乗ってもらいたいのです」
彼の言うことは本当だった。このタクシーに初めて乗った時、嫌な匂いというのは全くしなかった。僕はこのタクシーの独特の雰囲気に飲まれて、そのことに全く気付かなかったのだが、言われてみると彼の言うとおりだった。
「結局ね、努力が足りないくせに言い訳ばかり言うんですよ。それも、もっともらしい理由だから、みんな納得してしまう。でも、ただ単に努力が足りないだけなんです。私もそこまで人のこと言えるような人間じゃないですけどね。でも、お客様に気持ちよく乗ってもらうためには、それなりに努力をしているつもりですよ」
 彼の言うことは、いちいちもっともらしかった。僕自身、あまり努力をせずに言い訳ばかりしてきたような気がした。だが、彼のは“努力”というよりは“情熱”だった。彼のタクシーに対する情熱がそうさせるのだろう。僕にはそこまで情熱を傾ける対象がなかった。
 彼の言う通り、彼が運転する車内は心地よい空間と時間が提供されていた。嫌な匂いもしなく、とても静かだ。僕はもう一度ゆっくりとたばこの煙を吸って、ゆっくりと吐いた。 
 しかし、たばこを一本吸いきってしまうと、僕はもうそれ以上吸う気が起きなかった。彼の情熱が強すぎたのだ。努力というものは、見えないところで行われるから、美しい。それが見えてしまったとたん、人は悲しくなる。自分が努力していない事実に気付くか。そして、努力をする人に対して少し嫉妬する。いや、それも努力しない者の言い訳なのかもしれない。努力する人に影響を受けられれば……、きっと人は努力するだろう。情熱さえ持ち続けられれば。
 でも、結局僕はたばこをもう一本吸う。自分を繋ぎ止めるために。そして、ゆっくりとため息を吐き、自分を摩耗させる。バラバラになるか、摩耗していくか。どちらにしろ、僕は消えていく。ため息に気付かないように、気付かれないようにする。こんなところにしか、努力をしないのか?僕は別の意味で悲しくなった。最後に努力をしたのはいつだろう? 何かに情熱を傾けたのはいつだろう? ずいぶん昔なのだろう。惰性で生きている。日めくりカレンダーを一枚一枚はがすように、意味もなく一日一日を消費している。そして最後には僕に何が残るのだろう?努力をしない人間には、何も残らないのだろうか?それとも……、努力をしたところで結局死ぬ寸前には何も残らないのだろうか? ちょうど、遠いシベリアで、人が無意味に死んでいったように。誰も僕に答えを教えてくれなかった。誰も答えを持っていなかった。分かっているのは、それは死ぬ寸前に分かることかもしれないということだけだった。
 静かな時間が広がっていた。運転手も、もう話しかけてこなかった。聞えるのは、車のエンジン音だけだ。僕は、外の景色を見ながら、ぼんやりとしていた。時々コンビニの光が見えた。退屈そうに若者たちがたむろっていた。彼らは、孤独で寂しそうだった。それは、以前の僕の姿だった。また明日、僕は孤独になる。今までその事実を忘れていただけだ。
 
 「お客さん、着きましたよ」
 運転手の声で目が覚める。僕はまたうとうとしていたみたいだ。
 あたりを見ていると、そこは確かに僕の家の近くにある交差点だった。ずいぶんと長い時間、眠ってしまったようだ。
「あ、眠っていたみたいです。すみません」
「いや、もちろんいいですよ。お客さんお疲れのようでしたしね。私こそ、よけいな話をしてしまってごめんなさいね」
「いや、そんなことはないです……。それで、お代はいくらですか?」
 ロシアンタクシーという名前だから、「○○ルーブルです」なんて言われるかと、少し不安になったが、そんなことはもちろんなかった。きちんと日本円で請求されたし、値段も割と良心的だった。
「じゃあ、これがお釣りね。ありがとうございます。今日はお客さんと話せて楽しかったですよ。私と話すと嫌な顔をする人も多いんですけどね。お客さんはそういうこともなかった。たまに、お客さんみたいな人と出会えるのが、私としても楽しみなんですよね」
「僕も楽しかったですよ。まあ、色々考え込んでしまって、眠ってしまいましたけど」
「そう言ってもらえると、私としてもとても嬉しいです。それで、ついでと言っては何ですが、私と一つゲームをしませんか?」
 彼はそう言って一挺の拳銃を取り出した。拳銃はリボルバータイプで、弾倉のそれぞれの部分に弾を一発一発入れなければ入れないやつだ。
 彼は弾倉を開いて僕に見せた。弾倉には一発しか弾が込められていなかった。
「これを見れば、私が何のゲームをしたいのか分かるでしょう?そう、“ロシアンルーレット”ですよ。
 お客さんはうちのタクシーがなんて呼ばれているか知っていますよね?“ロシアンタクシー”です。そんな名前のせいでいろんな噂が一人歩きしちゃって、お客さんがなかなか寄りつかなくなっちゃっているんですけどね。
 なんでうちが“ロシアンタクシー”って呼ばれているかって言うと、早い話がロシアの話を好んでするからです。でも、それだけじゃない。こうやって“ロシアンルーレット”をやらないか?って、お客さんに言うからです。もし、お客さんが勝ったら、運賃はただにしてあげますよ。負けたら……、もちろん“死”です。どうします? やりますか?」
 彼の提案を僕は全く本気にしていなかった。あまりにばかばかしいと思った。タクシーの運賃程度で命がかけられるはずなんてない。
 僕は少し怒った声で、彼に言い返した。
「そんな馬鹿馬鹿しいことをするわけがないでしょう。タクシーの運賃程度で命をかけるなんて、あまりに馬鹿げています。悪いとは思うけど、そのゲームに乗るわけにはいきません」
 彼は悲しそうな顔をした。そして、また悲しそうな声で答えた。しかし、今度は何かを悟ったような声だった。
「まあ、そう言うでしょうね。今まで私が乗せたお客さんは、おそらく千人はくだらないと思いますけど、皆が皆『ふざけている。そんなことやるはずがないじゃないか』と仰いました。
 確かにふざけています。馬鹿馬鹿しい提案です。それは私にも分かっています。でもね、そう言う馬鹿馬鹿しいことを嫌でも選択しなければいけない時というのは、いくらでも存在するんですよ。この人生を歩き続けている限りね」
彼はそう言って、弾倉をクルクルと回した。そして、ゆっくりと拳銃の撃鉄を起こし、自分のこめかみに銃身の先を当てた。
 時間が一瞬凍りつく。彼は何のためらいもなく、引き金を引いた。
 
 カチリッ
 
 乾いた音が、夜中の街に響き渡る。僕はその音が聞えるまで、彼から目を離すことが出来なかった。その一連の動作があまりに自然で、ためらいがなかったからだ。
 彼はゆっくりと銃を降ろした。
「また、弾が出ませんでしたね……。
 お客さん、私はね、お客さんが断るたびに、一人でゲームをするんです。つまり、今まで、千回以上このゲームを行ってきたことになりますね。もちろん何にもメリットはないです。自分が助かったからって、お金が二倍はいるわけでもないです。失敗すれば、ただ“死”が私に訪れるだけです。いえ、私は決して自殺願望者でないですよ。せっかくあのシベリアの地で生き残った命なんです。そうそう粗末には扱えません。
 それにも関わらず、何で私がこんなことをすると思いますか? それはね、さっきも言った通り、結局人生にはこういうことばかりだからです。もちろん、好きこのんで自分から呼び寄せる必要は全くないですけどね。でも、それは自分から呼び寄せようが、人から与えられようが同じなんです。人生にはそういう理不尽さばかりがあふれているんですよ。そうやって、我々は馬鹿馬鹿しいことを嫌でも選択させられるんです。そして、選択しても何も得ることはないんです。悲しいですよ。でも、仕方ないんです。私は、それをずっと昔に悟ったんです。幸運なことに、今まで死なずにすんでいますけどね」
 彼はそう言ってもう一度弾倉を開いて見せてくれた。
 弾倉の中にたった一発の弾が確かに入っていた。死神の使いであるその弾は、弾倉の中に静かに鎮座していて、無機質に笑っていた。
 僕は彼が狂っていると思った。だが、何も言い返せなかった。
 僕のこめかみの奥に弾丸が撃ち込まれた気分だった。弾丸は、僕のこめかみを抜け、脳の血管や神経をずたずたにした後、反対側のこめかみを抜けていった。そうして抜けていった弾は、彼の拳銃の中に再び戻っていった。
「や、またつまらない話をしてしまいましたね。老人の戯れ言だと思って忘れてください。
 じゃあ、私はもう、おいとましますね。でも、お客さんと話せて楽しかったですよ。これは本当です。人生は、理不尽な選択もあるけど、こういった楽しいこともたまには選べるものなんです。
 またどこかで会えるといいですね。それでは」
 彼はそう言って、ゆっくりと車を発進させた。そして、エンジン音だけを残して消えていった。
 
 
 僕は行進し始めた。遠いシベリアの地で。何もかもが凍りつく……、そんな場所だ。
 頭からは血が流れている。僕はゲームに負けたのだろう。弾は頭の中から出ていたが、傷は致命傷だった。もう助からないだろう。それでも僕は行進をやめることは出来ない。
  僕はゆっくりと倒れる。もう誰も僕を抱き起こさないし、誰も僕の名前を呼ぶことはない。
 血は流れ続けている。真っ白な雪の大地を赤に染めていく。
 僕の体は凍りついた。血だけが生暖かい。そのうち血も凍りつく。そうすれば、心も凍りついてくれるだろうか?
 僕は孤独に死んでいく。
 何故これを選んだのだろう? その選択は理不尽だったが、選んだのは僕だった。
 それとも何も選ばなかったのだろうか?
 僕は死の寸前ですら答えを手にしていなかった。