日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

ほんとうのさいわい

 Twitterでフォローしている人が増えてきた。今のアカウント、実のところ三つ目のアカウントで、最初に持っていたやつは、研究室時代に作ったものであり、指導教官とケンカ別れをした時にアカウントを消した(研究室の人と繋がりがあったため)。二番目に持っていたやつは、とあるアーティストについて書いたらそのファンの人からリプライが大量に飛んできて、面倒になって鍵かけてツイート全消しした。その二番目もやつもリアルの知り合いと繋がりがあるが、アカウント自体は消してない。ただ、そのリアルの知り合いのため、あまり変なことは書かないようにしようとか思っていた。今のアカウントは当初人の発言を見るためだけに作って(暗い)、自分は発言しないつもりだったが、やっぱりやっていると楽しいから、どんどんツイートしてしまう。リアルの知り合いがいないから、結構好きにやっているけど、誰がどこから見ているか分からないと思ってしまうと、やっぱり少し萎縮する。
 
 自分の話はいいや。フォローさせていただいた方々の小説や詩や短歌を見ていると、自分から見て才能の塊みたいな文章、自分がひっくり返っても出てこない言葉や、絶対に書けない文章を書いている人がたくさんいて正直嫉妬してしまう。こんな人達が在野に埋もれているのだ(私が知らなかっただけとも言えるけど)。それに加えて絵や音楽もだ。もちろん、人文学系の知識(哲学でも歴史でも文学でも)の専門家のような人々がうようよいる。そして、それと同時にそういう人たちがほとんど死にたがっているように見える。死ぬことが唯一にして絶対的な解であるように。死にたがっているというか、生きていく事自体に意味が無いと知っているように。逆に言うと、そういう厭世的な考えや、希死念慮みたいなものが、私や色々な人を惹きつけているのかもしれない。幸福は誰にとっても同じだが、不幸は人それぞれであり、そのため不幸であるがゆえに作品に深みが出てくるのかもしれない。しかし……、人は不幸でなければいけないのか。悲しみを知らないといけないのか。それ自体が悲しく感じる。
 
 世界で一番幸福な人は何も書かないのだろうか。神にお祈りすることはないのだろうか。
 
 それは、愛についても同じことが言えそうで(愛という言葉はある意味で陳腐だ)、本当の愛なんてものはどこにもないとは言わないけれど、本当の愛を知っていそうな人、本当の愛について真剣に考えている人はどこか不幸そうだ。愛という感情に不幸が内包しているかのように。そうなのかな、テレビや漫画の世界の人々は幸せそうに、愛し合っているのに。あれはお互いの感情が目に見えているからだろうか。どんなに愛し合っても公平に愛し合うことはできないのかも知れない。それについて知れば知るほど、真剣に考えれば考えるほど、それはどうしようもできなくなっていって、全てが空しい。何も考えないというのは幸福なりや。
 
 これは全然別の話なのだが、どんなに素晴らしい作品を作ったとして、それが何百年後にも残り後世において絶賛されたとしても、自分が死んでしまったらそれを見ることは叶わない。それにこの地球や太陽、宇宙だって、永遠に続くわけではない。それならば、生きていくことに何の意味があるのだろうか、というのは誰しもが考えることだと思う。でも、永遠に何かが残ることのほうが怖くないだろうか。そもそも「意味」とはなんだろうか。それは誰かが与えてくれるようなものだろうか。結局生きていくことに納得できるかどうかは自分次第ではないだろうか。それに納得出来ないのならばさっさと死んだ方がいい、でも死ぬのも怖い、甘えるな、何て感じで簡単に納得できたら人生苦労しないし、結局迷った人は宗教にハマったりする。それでも表現する人は表現していくし、最終的に自分を空っぽにしてしまうためにやっているのだろうか。残すためではなく、空っぽにするため。何となく、それならば私も同意できる。
 
 私は何者でもないけれど、宗教の教祖でも大金持ちでも哲学者でも牧師でもカウンセラーでもセラピストでも精神科医でもミュージシャンでもなんでもないけれど、不幸な人たちはなるべく幸福であってほしいと思ってしまう。それは自分の目に見える範囲だけでも、それを見ているのが辛いから、というエゴに近い。それがお金で解決できる問題で、自分にお金があったなら、それで解決してほしいと思うほどに(実際はお金で解決はできないだろうし、お金はない)。物質的不幸というものは、もう運が悪かったと言うしかないものが多くて、どんなに気をつけていても道を歩けば交通事故に遭うし、家に引きこもっていても、地震で家が倒壊するかもしれない。生まれてきた環境で金銭などの持っている物質量は変わってくるし、生まれてすぐに死んでしまう赤ちゃんもいる。それは、前世の因縁とかではなく、運の世界、確率的に一定数生じるものとしか言えない。 もちろん減らすことはできるけど、ゼロにはできない。不幸に遭った人にとってはとんでもない話だけれど、そういった不幸は誰しもに起こりうることで、だからこそ幸福な人はそれについて受け入れるべきだし(ああでも幸福とはなんだろうか、物質的幸福)、逆に不幸な人はそれについて嘆くべきではないかも知れない。だから、結局運の話であるならば、その人の不幸の因果について語るのではなく、状況が好転するように手を助けてあげたい。自分自身がそうしてもらった経験もあるから。しかし、不幸とは、幸福とはなんだろうか。それは誰かによって救えるものなのだろうか。
 
 或いは全てが自分の勘違いであって、みんな生きていてハッピーなのかもしれない。勝手にそのように見ているだけなのかもしれない。それならそれでもいいけど。むしろそっちの方がいいけれど。
 
 無力。