日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

20180210 最近思うこと

 

 

 
ちょっと暗い日記。
もやもやをすっきりさせたい。
 
 
1.夢について
 昨日すごく嫌な夢を見た。ヤクザに追いかけられる。怪物や化物や幽霊よりも怖かった。
 それで夜中に起きてしまったら、なんか家の玄関がガチャガチャ言っているような気がして、それが恐怖を増大させた。多分空耳だろう。そう信じたい。
 それで、今日もまた嫌な夢。
 なぜ今日の夢が嫌なのかが分かった。母親が出てくるからだ。辛気臭い顔で。
 シドニーに行く。しかし、それはどうでもよくて、家族。
 家族が好きだった。好きになってほしかった。好きになろうとした。嫌いではなかった。
 好きになるのも嫌いになるのも体力のいることで、嫌いになる方が多分体力が必要で、だから好きになろうとしたのかもしれない。それだけだ。
 祖父が健在で、旅の話を聞いてくれた。叔母やいとこもいた。
 実家、夢の家は建て替える前で、なぜなら建て替えた後の実家を私は知らない。何度か訪れたが、あまりに思い出が薄い。実家といえば、あの建て替える前の、あのボロい実家だ。思い出のある。
 なんだか取り返しのつかないことをしてしまった気もするし、実際そうなのだろう。
 悲しみ、がある。自分だけの。
 なるべく丁寧に夢を辿って過去へ、記憶へと戻ろうとする。因果関係を何とかして見出そうとする。私は目を開けずに夢の中に入りもうとする。しかし、それは虚しい行為。そして、次の瞬間にはできなくなっている。
 あの家が嫌いだ。でも、好きになりたかったんだと思う。つらい。
 
 
2.睡眠について 
 睡眠障害というわけでないけれど、どうしても冬は朝起きるのがつらい。その気になれば多分夕方まで寝ていられるだろう。それこそ昔は昼過ぎまでダラダラ寝ていた。
 睡眠について長年悩んでいて、夜遅くまで起きていると、朝起きられない、もしくは起きられても睡眠時間が短いために日中が大変つらいということが人生で何度もあった。自分は最低でも六時間は寝たいし、可能であれば七時間半は寝たいと考えている。しかし、夜遅くまでネットサーフィンをしたり、本を読んだり、ゲームをしたりということをしていると、もう朝は起きられなくなる。ただ、そうした行為をやめれば朝早く起きられるかというと、あまりそういうこともなく、朝起きられる時間は大体決まってしまっていて、早くても7時とかになってしまい、特に冬なんかは朝5時とか6時に起きて作業するということが大変つらい。ほとんど無理に近い。
 それでも高校時代までは生活に大きな支障はなかった(と思う)。大学に入ってからは……。やめよう。とにかく朝起きられない。それで、社会生活を送れなくなった。
 人間の三大欲求は、食欲と性欲と睡眠欲らしいが、その中でも睡眠欲のコントロールができないことが悩みだ。ショートスリーパーの人に大変憧れる。
 睡眠ってどこまでも孤独な行為で、他人と共有できない上に、睡眠をしている時は睡眠をすることしかできない。加えて睡眠時間は他の二つと比べて非常に長い。食事は人と行うことができるし、その美味しさを共有することもできるし、行儀は悪いが食事をしながら他の作業も可能だ。性欲については、性交であればその気持ちよさを共有できるし、自慰行為であっても、どのような自慰が気持ち良いか人に教えることができるし、自分の自慰行為を人に見せて人の自慰行為の手助けにすることも可能だ。性交中や自慰の間は他の行為はできないかな(多分)。ただ、食欲も性欲もその処理に睡眠欲ほど時間はかからない。しかし、睡眠に関してはどんなに気持ちのいい夢、楽しい夢、怖い夢、美しい夢、醜い夢を見たとしても、それを人と共有することはできないし、どうすればそういった夢を見られるかを人に教えることができない。
 まとめるとこんな感じ
 
時間の長さ
睡眠>>>食事>性交(自慰)
(食事と性交は逆になる可能性もあり)
 
行為や快楽の共有可能性
食事>性交(自慰)>>>>睡眠
 
他の作業ができるか
食事>>>性交(自慰)≒睡眠
 
 睡眠だけが時間がかかる上に共有も他の作業もできなくて、本当にどう扱ったらいいか分からない。一時期、睡眠薬を飲んでいたけど、睡眠のコントロールにあまり効果があるように思えなかった。眠い時は何時迄も眠い。人によって睡眠時間も異なるし、そのくせ社会は睡眠時間が平均的な人(六時間くらい?)に合わせて作られている。不公平な感じもする。せめて夢の共有ができたらと思う。
 でも、睡眠直後に思いつくアイデアなどもあるとよく言うし、人によっては上手くコントロールしているのかもしれない。
 
 
3.パクリについて
 創作のパクリについてのツイートを見た(もう一ヶ月くらい前のこと)。そのパクった作品は雑誌でしか読めないのだが、私は雑誌を購入していないのでパクったという作品を見ていない。パクられた(元となった)と言われている作品はネットで見られるから見た。
 実際の作品を見ていない以上パクったかどうかは分からないけど、問題が拗れてしまったように見えるし、未だ解決していないようにも見える。今回はお金が絡んでいないようだけど、お金が絡んでいたら、もっと地獄だっただろう。
 無料でオープンスペースにアップしたものを、有料でしか読めないものでパクられた場合、パクられた側は立場が弱くなるし、実際にパクられたかどうか分かりづらくなるという問題があるなと思う。無料であれば著作権がないのかというそうではないし、パクったほうが悪いのは当たり前なのだが、どうしても「誰にでも見られる場」というのが、パクられやすい環境を作っているように見える。あとは同人活動で、弱小サークルのアイデアを大手サークルがパクるとかもよくあるらしい。これは力関係があると、パクられた方が言いづらくなるし、仮にパクられた方がパクったと言っても、周りの信者がそのことを非難してくる、らしい。
 力関係があると、問題の解決が難しくなってくる。そもそも問題を解決するためにはどうすればよいのか。謝ればよいという話でもないだろう。発行物を取り下げるのか、賠償金を払うのか。ここでパクられた方が感情的にパクった方を糾弾しても問題は解決しなくて、本当にどうにかしたいなら、証拠を集めて裁判をするなりする必要がある。その前にパクった相手が認めてくれればいいが、その可能性は低いだろう(パクツイの問題でもあったけど)。証拠を集めるにしても、相手が本当にパクったかどうか、一字一句同じでなければ証明はできない。もしかしたら、たまたまアイデアが被ってしまった可能性もある。
 結局よほど突拍子もないアイデアでなければ似てくることは多々あるし、無料の場に提供している以上、誰かに読まれてパクられてしまう可能性は減らせない。パクリまでとは言わなくても、影響をあたえることは多々あるだろう。
 自分もパクらないようには気をつけているけど、何かから影響を受けている可能性は大いに有り得るし、無意識に同じようなものを作ったり、たまたま似てしまったりすることもあるだろう。もちろんその逆もあるかもしれないが、それはアイデアが在り来りであるのだろう。
 難しいなあと思うけど、作品を読んでいたり選んだりしている側も世界中の作品、特に無料で公開されているものを全部チェックしているわけではないし、発表している方もそうであろう。気をつけるということ以上ができないのが少しもどかしい。
 なんかごちゃごちゃ書いたけど、ここで言いたかったことは、「真に問題を解決するには感情的になっても仕方ないのではないか」ということです、実は。 だって今回の件は感情的過ぎて解決するように思えない。
 
 
 一週間くらい前から見ていたやつ。
 
 当人間では一応解決したらしい。最初から最後まで追っていたわけではないし、話の全てを理解していないけど、何か色々考えさせられてしまった。
 片方の立場は学術的な意見に思えて、もう片方は実際的な、社会的な意見に思える。現実的にとか、実際的にとか、社会的にとか言われると反論が難しくて、社会の円滑な運営のためにはある程度妥協というか、目をつむらなくていけないことが多い、と言うのは知っているけど、何とかそこから逃れらないかと思う。ただ、仕方がないことも多いも分かっている。そこの線引をどうするか。
 学術的な意見もなるほどと思うことがあって、これが社会制度と衝突(矛盾)した時に、どう解決するのか、折衷案をどうやって出していくのだろうか、という思いもある。学術的な意見って理想論に見える部分もあって、それをどうやって現実社会に落とし込むのだろうと。社会契約論とかその類の話なのだろうか。
 
 
5.希死念慮ネプリ
 出そうかなあと思ったけど、何だか呑まれそうな気がして止めてしまった。今は希死念慮は大分薄れているけど、二つほど作ってみた。
 
欄干の上から落ちてさようならテールランプを越す走馬灯(短歌)
 
合図なく痕跡残し飛び散った未来や悲しみ、肉塊などが(短歌)
 
 
6.二物衝撃
 「月があまりにきれいで、恐ろしい」というワードが頭に浮かんできて、これ自体は凡庸なフレーズだけれど、在り来りではないフレーズってどうやって作るのだろうかと。「星野しずる」の時にも思ったけど、二物衝撃は詩的効果を飛躍的に上げてくれるが、それに頼りすぎるのも危険だ。そもそも「月が綺麗ですね」と「愛している」を結びつけたのは夏目漱石らしいけど、これ二つにはあまり関連性がない、と言ってしまえばないように見える。長い年月の間に人々に受け入れられて、詩的効果を生み出しているのかもしれない。ただ、この「月が綺麗ですね」というフレーズ自体には年月を経てなくても、普遍的な詩情があるようにも見える。このようなフレーズはどうすれば生み出せるのだろう。かつてない比喩を作るために安易に適当な二つの単語を組み合わせるのは危険だが、在り来りではないようにするにはどうすればいいか。
 「始祖鳥のような冷たさ」というフレーズを使ったことがあるが、これは在り来りだろうか。それとも意味不明だろうか。安易な二物衝撃だろうか。
 何かよく分からなくなってくる。というのを考えて、下のような物を作った。
 
もう何もかもがどうしようもない
ぼくは洗濯物を干す
何層にも積み重なった雲が遠くに見える
それを一枚一枚ひっぺがせば
青空が曝け出される
青空もかさぶたを剥くようにペリペリっと破って
中から肉塊のような真っ赤な夕焼けを取り出したい
夕焼けも全部取り出してしまったら
あとは夜だけが残るんだ