日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

まな板

 
世界が美しくあったのならば。
 
子供のころ。
私の話には子供の時の話が良く出るが、私自身はまだ大人になったばかりで、
そしてこれから先の人生の思い出の量などは、今までに比べたら塵に等しいと自分でも把握している。
 
家には大きなまな板があった。
それは、それはとても巨大で、父になぜこんな大きなまな板があるのかと聞いたところ、
マグロを捌くためという答えが返ってきた。
しかし、実際のところそれは、マグロはおろかクジラでも捌けそうな大きさだった。
 
そんな巨大なまな板を扱うため、台所も巨大だった。
家の半分以上は台所であったのではないだろうか。
まな板以外にも、包丁だけでも20種類以上あり、
ありとあらゆる調理用具がそろっていた。
 
休日、父がまな板の上魚や肉を捌いている横で
私や兄弟達はジャガイモや人参の皮をむいていた。
まな板は全員が使っていてもなお余裕があった。
母は鍋の前で味付けをしていた。
 
兄弟が多かった。
私は兄弟の末っ子で、上に10人の兄と姉がいた。
 
一番目の長男は戦争に行って帰ってこなかった。
二番目の長女は川に溺れて亡くなった。
三番目の二男は海外の大学に行き、そのままその国に亡命した。
四番目の三男は神を信仰するため、教会に入った。
五番目の次女は軍隊に連れて行かれた。
六番目の三女は遠い田舎に嫁いで行った。
七番目の四女は肺炎で亡くなった。
八番目の四男は精神を病んで自殺した。
九番目の五男はレジスタンスを結成して消息を絶った。
十番目の五女は野犬に食い殺された。
十一番目の私だけが家に残った。
 
父と母は空襲で亡くなった。
家も空襲で壊された。
私は瓦礫の中からまな板を発見した。
小さくなったそれはマグロどころか金魚すら捌けそうにない大きさになってしまった。
 
失われたものを懐かしがっているわけではない。
これから先のことを絶望しているわけでもない。
ただ、あの瞬間がもう一度蘇ってくれさえすれば、
私のこれからやこれまでが、きっと永遠に美しく輝き続けてくれるのに、と思う。