日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

雪を燃やす(短編小説)

 
 北へ北へと旅をしているうちに、冬になってしまった。
 それ以上進みたくとも足がない、と宿の主人に聞いたので、その村で冬を越すことにした。
 村には雪が降っていた。私が生まれ育った土地は暖かかったため雪が降ることはなく、私は雪というものを見るのは生まれて初めてであった。雪は話に聞いていたよりもずっと白く見え、そして雪が降る村は人が住んでいないかのようにひっそりとしていた。
「随分と静かなのですね、この村は」
 降り積もってゆく雪を窓から眺めながら私がそう言うと、宿の主人はお茶を入れつつこう応えてくれた。
「はあ、そうですねえ。雪が積もってしまうと、何もできなくなって家に篭もる他ないですから。それに雪が音を吸い取ってくれるのですよ」
「いや、それにしてもこんなにもひっそりとしていると、村全体が死んでしまったようですね」
「この村は冬になると一度死ぬのですよ。しかし、それは春に再生するために必要なことなのです。村は冬に一度死に、その間に雪が音や記憶や汚れを吸い取ってくれるのです。春から秋にかけて作られた嫌な記憶や溜まった汚れを冬の間に雪が吸い取って、そうして春になると何もかもが生まれ変わり、村は再び動き出すのです」
 
 雪のために外へ出ることもできず、私は宿に篭って、もう差出す相手がいない手紙を書いていた。
『拝啓 
 寒冷の候、つつがなくお過ごしのことと存じます。
 北へ北へと来ているうちに、遂には世界の果てのような場所に着いてしまいました。ここは恐ろしいほど寒く、そして信じられない量の雪が降っております。私は生まれてこの方、雪を見たことがなかったため、初めは新鮮な気持ちで見ておりましたが、段々と陰鬱な気分になってきました。この土地では雪が降っているため音がなく、また同時に白以外の色がありません。まるで死後の世界のようです。そのため陰鬱な気分になってしまうのでしょう。貴方様がいる世界が、このような場所ではないことを心から祈っております。
 それでは寒さが厳しくなってまいります。くれぐれもご自愛くださいませ。
 敬具』
 手紙を書いてしまうと、便箋を丁寧に折りたたみ、宛名の書かれていない真っ白な封筒に入れてから厳重に封をした。そして、それをそのままコートのポケットに乱暴に突っ込んだ。そうしてやることがなくなってしまうと、また窓の外の雪を眺めたが、実際には雪なぞ見ておらず、ぼんやりと考え事をしていた。冬を越したらどうしようか、このまま更に北へ向かうのか、それとも一度、南へ戻るのか。春になってから考えればいいとも思ったが、はたしてこのまま無事に春が来るのかどうかが私には分からなかった。深々と降り続く雪を見ていると、永遠に冬が終わらないのでは、とさえ思った。
 
 しかし、私の心配は杞憂に終わり、年を越してしばらくすると、少しずつ村も暖かくなっていった。私は少し気分が良くなって宿の主人にこう尋ねた。
「この降り積もった大量の雪は春になったらどこへ行くのでしょうか。川を流れ、海へ行くのでしょうか」
「雪ですか? この村では積もった雪を一ヶ所にまとめた後に、それを燃やすのです。燃やさずに溶かしてしまうと、吸い取った汚れやら何やらが、そのまま村とは関係のない海へと流れていってしまいますので。燃やした後にできる灰は、春になると畑に撒いて肥料にします。そうすることで、全ての汚れがこの土地に還ってゆきますから」
「雪を燃やすのですか?」
「そうです。あなたはもう少し暖かくなるまではこの村にいらっしゃるのでしょう? それならば雪を燃やす光景が見られますよ。ぜひ見ていって下さい。それはとても壮大で、悲しい光景です」
 
 次の週、私は宿の主人に案内をされ、村外れの広場へと連れて行ってもらった。そこには冬の間に降り積もった大量の雪が集められていた。自分の背の高さよりも高い雪の壁が延々と続いてゆく様は、確かに壮観である。その大量の雪を、村の人達が少しずつ燃やして灰にしてゆくのだ。
 不思議なことに、雪は白色でも、燃やした時の煙は赤や青や黄であり、また燃やした後に残る灰は銀に光っていた。
「あの赤は雪が吸い取った音の色です。青は人間の記憶の色。青が濃くなり、より黒に近いものほど悲しい記憶が吸い取られていると言われています」
 宿の主人が私に耳打ちをしてくれた。私は久しぶりに「音」というものを聞いた気がした。雪が降っている間に聞いていた「音」は常に薄い膜を通しているようであり、聞いていたことは実のところ聞いておらず、読唇術を使って人が喋っていることを理解するようであって、私はそれを「音」として認識できていなかったのだ。
「雪は悲しい記憶だけを吸い取ってくれるのですか?」
「いえ、そうではありません。ただ、この村で起きることは、どうしてか悲しいことが多いのです。そもそも、この雪が降る長い冬自体が悲しみの体現のようなものですから」
 主人は晴れやかな顔でそう言ってくれた。しかし、私にはその顔が本心から来るものかどうかが判断できなかった。
「私も五年前に妻に先立たれた時は、随分と悲しい思いをしました。私の一人娘も一度は南の方へ嫁いでいったのですが、流行病で旦那が亡くなりましてね。子供もいなかったので、そのままこっちへ戻ってきました。私達二人のそういった悲しい記憶も、この雪が全部吸い取ってくれて、こうやって灰になってゆくのです。もちろん悲しい記憶が完全に無くなるわけではなくて、記憶は残りつつも悲しみが少しずつ薄まってゆくのです。この村の住人はそうやって悲しみを乗り越えてきました。この村ができた遥か昔からずっとそうやってきたのです。そうしないと私達は悲しみを乗り越えることができなかったし、そうしないとこの村は悲しみで覆い尽くされてしまうでしょう」
 私は主人のそのもっともらしい言葉を聞きながら、小さな違和感を覚えずにはいられなかったが、それを口に出すことはなかった。雪に吸い取られた悲しい記憶は、雪とともに燃やしてしまうらしいが、それで完全に消え去ってくれるのだろうか。悲しみは灰と共に残され、それはこの土地に再び撒かれてしまうのではないだろうか。
「あなたも、もしこのまま旅を続けるのであれば、しばらくこの村で過ごしたらどうですか? 冬は大変ですが、それ以外の季節は良いですよ。あなたがどういった理由で旅をしているのか存じ上げませんが、何か悲しい理由がおありなのでしょう。この村にいれば、その悲しみもきっと癒やされますよ」
「いえ、私は……」
 主人の突然の提案に驚いてしまい、私は後ろによろけてしまった。そのことを恥ずかしく思い、誤魔化すためコートのポケットに手を入れると、何かが入っていることに気がついた。取り出してみると、それは宛名に何も書かれていない封筒であった。それを見て、私はああと小さく声を漏らした。私は、私の胸に永遠に消し去ることのできない巨大な悲しみがあることに気がついてしまった。
 私は主人の目をまっすぐ見据えこう切り出した。
「素敵なご提案ありがとうございます。でも、私は大丈夫です。このまま更に北へ向かいます。ただ、もしよろしければ一つお願いしたいことがあるのですが」
「なんでしょう?」
「この手紙も雪と一緒に燃やしてもらっても良いでしょうか」
 そう言って私は手紙を差し出した。主人はそれを見て何か言いたそうであったが、結局は何も言わずにそれを受け取ってくれた。
「良いでしょう。あとで私から頼んでおきます」
「ありがとうございます」
 
 更に月を跨ぐと、次の週に北へ向かう汽車が動き出すと宿の主人から聞いて、私は早速切符をとった。
 次の週、身支度をすると私は宿の主人にお礼を言って、汽車の停留場へと向かった。停留場は、村外れの広場の近くにあった。
 私以外の乗客がいなかったため、私は四人がけの席に一人で座り、窓から見える広場を見ていた。広場では今日も雪が燃やされていて、色とりどりの煙が空へと昇っていった。
 そのうち発車時刻となって、汽車は汽笛を鳴らしながらゆっくりと動き出していった。私の手紙はもう燃やされてしまったのだろうか、そう思った瞬間に、広場からはひときわ濃い、ほとんど黒に近い青色の煙が立ち昇っていった。あの煙がどこに行くのか、私がこの先どこに行くのかは分からないけれど、もうこの村に戻ってくることは、いやもう南に戻ることはないだろうな、と私は思った。
 その青い煙は空へ近づくにつれて色が薄くなってゆき、やがてほとんど雲に届きそうなところまで昇ってゆくと、空の色と同じになり、完全に見えなくなった。