日々のこと

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言葉の力

 
 昨日のうたの日(うたの日はオンラインで毎日開催されている歌会です)。
 
見えている色をあなたに伝えたいのに「青」「あお」「アオ」"ao" 不自由だ、言葉は
『 不自由詠 』 ニコ #うたの日 #tanka http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=1596e&id=10

 

 有り難いことに、評を二つ頂いた。
 
この歌にコメントしてしまうのがすこし悔しくて というのは結局「不自由だ、言葉は」ていう結句のステイトメントにわたしは反応してしまってるんですよね
「言葉は不自由なんかぢゃない」て心の底から思っていて私には大好きな短歌や大好きな大喜利や大好きな小説の一節があってそこではみんな本当にかわいく言葉が羽ばたいてるんですよ 少しでもそこに近づきたくてわたしも短歌を作ったりしているんですけどその方法として直接的な表明ではなくてただ目の前にある「もの」を信じるていうやり方を採用してやってきたのでこういう表明短歌に足を止めちゃうのがすこし悔しいんですよね すみません‥もちろん信じるものは自由だしそれが悪いと言ってるのではないんですけどね
詠者さんも本当の意味で言葉は不自由だとは思ってないと思うんですけどこんなに分かりやすい形で言葉が使われているのを見ると「言葉の不自由さ」をわたしはすこし感じてしまいます いろいろ考えてしまいました
白黒つけたいカフェオ-レ

 

不自由をどう捉えるか、今日は悩ましい題だなと思いました。
詠むにあたって、不自由だと感じているものを書き出してみたのですが、一番最初に書いたのが、「言葉」でした。
自分の感覚に一番近しい歌で、とても共感したので、今日はこの歌にハートを入れました。
美しいものを美しいと伝えるとき、それをどうやって言葉にしたらよいのだろう、どうやって伝えたらいいのだろう。短歌を詠むようになってから、いつももどかしく不自由に感じています。
見えている色を伝えたいとき「青」「あお」「アオ」という文字でもなく、「ao」という音でもない。もっとしっくりくる、ぴったりな言葉があるはずなのに見つからない。だから、既存の言葉に頼るしかない。そんな不自由をそのまま歌った短歌。
不自由だと分かっているのに、それでも言葉を探しづけて「あなた」に伝えようと足掻く姿が、美しいのだと思う。心を打つ、好きな歌です。
未補

 

 私はこう返信した。

 
白黒つけたいカフェオ-レ様
コメントをありがとうございました。今回の歌は題に引きずられて、直接的かつ説明的になってしまったなと、コメントを拝見して思いました。結果として扇情的となっていて、詩としての完成度が低かったと思います。
私自身も、大好きな短歌や詩や小説があって、その中の言葉たちに心を動かされているのは揺るぎない事実なのですが、その気持ちは後天的に作られたというか、言葉という枠組みの中で生じた幻想のようなものではないだろうかという思いが、常に頭の片隅にあるような気がします。幻想でも、それはそれで良いのですけど、かつて小林秀雄が『美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。』と言っていたように、自分が花の美しさに言及するとき、それはすでに言葉の不自由さに囚われてしまっている気がして、何だか悔しいと思ってしまいます(小林秀雄の言葉は特に言語についての不自由さについて述べたものではないと思いますが、これ以上は専門でもなんでもないので、言及は避けます)。
ただ、それはそれとして自分は言葉を使って短歌を詠んでいるので、なんというか意味もなく大人にただ反発する子供のような歌になってしまいました。白黒つけたいカフェオ-レ様のコメントで、自分のそうした斜に構えたものの見方や卑しさが暴かれてしまった気がして、恥ずかしい気持ちです。重ね重ね、コメントに感謝いたします。
 
未補様
コメントをありがとうございます!上の自分のコメントと矛盾してしまうようですが、共感をしていただけると大変に嬉しく思います。
今回は単にクオリアの話で、色の伝える困難さの話になってしまいましたが、未補様のおっしゃるように例えば美しさや愛なんかを、我々は言葉を使って、ここにいる方たちは短歌という形にして必死に伝えようとしますが、どこかにもどかしさを感じているのかもと思います。
今回のお題で点字の歌を詠んでいる方もいましたが、
 
「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい/笹井宏之
 
や、うたの日でも西村曜さんの
 
「花束」の手話がわからず思い切り抱きしめてみる たぶん合ってる
『 花束 』 西村曜 #うたの日 #tanka http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=1118a&id=29
 
といった歌があって、言葉の力、というものについて考えてしまいます。
完全に蛇足ですが、今回のお題で
 
識字率100%のこの国でただ抱きしめることしかできず
 
という歌も作りましたが、完成度が低い上に西村さんの歌とかぶるので出さなくてよかったなと思います(というか既に類想歌がありそう)。
コメントをくださって本当にありがとうございました。
 
ニコ  
 
 今回は言葉の不自由さというか、不完全さについて言及した短歌となって、その詩としての完成度はさて置き、なんかコメントを頂いて、自分は言葉の力を信じていないのかなと、落ち込んでしまった。言葉を信じていないというか、自分の信じる言葉を使っていないというか。前者は言葉を全体的に信じているということになるが、後者は言葉の一部を信じていることになる。自分が持っている言葉の中に、信じられるものと、信じられないものがあるのか分からないけど、ここでは好きか嫌いかで言い換えてみたい。というと、単純に自分の好きな言葉で文章を書いているのか、と考えるとできているか怪しいなと思い、恐ろしい気持ちになる。
 自分の創作物が好きになれないと思うことが多々あって、それは人からの評価を受けていないということが第一に理由として挙げられてしまうのだろうが、そもそも好きな言葉を使って書いているのだろうか、と思う。これが好きだ!、と思いながらちゃんとやっているのかなと。自分が感動したことをきちんと消費できているのかなと。人からの目だけではなく。
 自分が避けているのは、言葉に対して責任を負うことで、それができていないから、これが好きだと心から思えていないし、人からの批判を恐れてしまっているのだろうと思う。結局技術ありきになってしまって、中身が入っていない。
 まあ、今回の歌は言葉の不自由さについてで、言葉への好き嫌いは別として、では言葉に万能性はあるのかと考えると、私は恐らく信じていない気がする。これってまずいのかな。でもこれについてはブログでも何度か話したことではある。でも、好きか嫌いかについて、言葉に責任を負えるかどうかについて、それはきちんと表現していきたいなと思うし、コメントでもそこの部分を突かれてしまった気持ちなので、ちょっと冷却期間を置きたい。単純にうたの日を少しお休みするってことですが。
 
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