日々のこと

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嘘2(枡野さんと穂村さんの対談を読んだ雑感)

2018年8月17日追記
 時間をかけて書いたから消したくないんだけど、チキンだから消したいという感情がある。この対談を読んでTwitterを見ていると、どうしても意見の対立が目につくし、このブログの記事も物事を単純化しすぎたせいで、結論が飛躍しているとも感じた。今のところ残しておきますが、何か問題があれば、DMください。まあ、アクセス数を見る限り見ている人は10人もいないっぽいが。
 

2018年8月29日追記斉藤斎藤さんにお会いする機会に恵まれ、やはり自分の文章が全て想像だけで書かれていて(まさに机上論)、かつ論理が飛躍しているなあと感じた。一応残しておくけど、消すかもしれない。枡野さんのおっしゃっていることも理解できるのだけれど、特定の人物を標的にするのはやり口が上手くないかなあと思っている。

 

  なんとなくブログに書く。書いているうちに長くなってしまった。

 初めの方でちょっとした対立の話がありますが、これに関しては本筋ではないので、注釈に意見を述べるのに留めます。煽る目的や、どちらかを非難する意図は全くございません。
 それで、この話の続きのような、繋がっていないような。
 
 
 前回の話で言えなかったのは景の結びやすさで、読んだ時に景が結びづらいと嘘くさいと言われてしまうのかなと。
 
 
 それはそれとして、三日ほど前、眠れなくて枡野浩一さんと穂村弘さんの対談を読んでしまった。 
 
 
 枡野さんの著作を一冊も読んだことがないため、何かを言うのは気がひけてしまうのだが、嘘についての話があったので、ちょっと整理した。私が広告業に携わっているので、広告屋からの視点で、なぜ創作で嘘を言うとまずいのかというのを自分なりに考えてみた。枡野さんもコピーライター業務を行っているらしいので、もしかしたら私と同じことを考えていたのかもしれない。ただ、繰り返しになるが、枡野さんの著作を読んだことがないし、もちろん会話をしたこともなく、この対談を読んだだけの印象であるため、自分の考えが枡野さんの考えに近いのか、正しいか正しくないかは分からない。
 それで、色々な過程をすっ飛ばして結論だけ書くと、装飾された言葉が如何に大衆の心を扇動しうるか、ということが嘘をつくことの危険性なのだと感じた。
 対談の中で枡野さんが斉藤斎藤さんの名前は本名でない(と枡野さんは考えている)のに、本名だと言い張るのはおかしいのでは、とおっしゃったあと、穂村さんが以下のように返答している。*1 
枡野 っていう経緯があったから、未だに言ってるってこともあるんだけど。本来、そんなことで名前を変えてほしいと思っているのではないのだが! 少なくとも、「それを本名と言い張るのはどういうことなんだろうな!?」 「面白くないな!」――と思っているんです!
 
穂村 ………………。うんっと……。こういうとき、なんて言えばいいのか……。あの……う~~ん。そ、そ、それくらいの事象って、世の中にいっぱいあるような気がするけど、そんなことないの?
 

 

 これについて、おそらく大部分の人が穂村さんと同じことを感じているだろうと思う。そんな細かいことはどうでも良いのではないかと。しかし、極端な話をしてしまうと、広告というのは言葉を装飾して(嘘と真実を織り交ぜて)顧客の購買意欲を煽るものなので、その効果を知っている身からすると、看過してしまうのも問題ではないかとは思う。健康食品でも「※個人の感想であり、効果には個人差があります」の一言で、百万人に一人でも効果があれば嘘ではないと言い張る広告があるが、これに釣られて物を購入した人は結果として騙されたと感じることだろう。
 短歌は詩であり芸術であるため、広告ではないという反論もあるかもしれないが、ナチスの例を出すまでもなく、芸術が広告として時の権力にプロバガンダとして利用された例は世界中に山ほどある。というより、プロレタリア文学を含め、芸術と政治思想が完全に分割可能であると考えるのは無理があるのではないかと思う。現に対談の中でも枡野さんが、
枡野 例えばひとつ例を出すと、「新聞歌壇」とかで、なんか左翼的な思想があたり前であるかのように短歌が作られていて、まったくそれと違う考えを持つ人が世界にいないような紙面構成になっているわけですよ。
 
枡野 実際には僕、例えば、一緒に演劇に出た仲間の女優さんの息子さんが警察官で、ごく普通に右翼的な考えを書いてる方だったりして、そういう人たちに「新聞歌壇」とか見てもらえないなって気がしたりするんですね。
 
とおっしゃっていて、もし新聞歌壇を読んでいる人が、やはり安倍政権は良くないなと感じとしたら、それは短歌の力によって思想を植え付けられたと言えるのではないかと思う。
 話を最初に戻すと、多くの人にとっては、筆名が本名であるかないか、短歌の内容が嘘か本当であるかなどは、どうでもいい問題なのだと思うし、私も心の中ではそう思っている。ただ、歌壇の人たちが、短歌は嘘でも何でもいいよ、というスタンスを表明したとき、悪意とも呼べないような無邪気な気持ちが入り込んだ時に、(これは「うたの日」でもあったが)簡単に場が破壊されてしまうのではないかと、私は考える。*2 それでなくても、個人的には短歌はコミュニケーションツールの一環として使用されてきた歴史を感じるので、詠者の思想が広告として利用されやすいのではないかと思う。
 そういった広告的な短歌は短歌ではない、という意見もあるだろうけど、短歌はその辺りに寛容だと感じられて、俳句における季語のような、短歌が短歌になるための十分条件がない以上、その意見は厳しいのではと感じる。
 そもそも創作者が読者に対して責任を負うべきなのか、読者がどう感じるのかなどは創作者にとってどうでもいいのではないか、それこそ表現が現実に従属している証左ではないか、という意見もあると思う。これについての反論はないけど、ただそこまで突き抜けるには、自分自身が社会のしがらみから脱せていない。それに、ちょっとした悪意が場を簡単に破壊してしまう恐怖も知っている。逆に言うと、そこから脱せた人が恐らく真の詩人や歌人なのだと思うし、自分はそういう意味では詩人でも歌人でもないなと思う。
 
枡野 ツイッターでも書いたことあるんだけど、穂村さんは“表現は現実に従属しないものであってほしい”――と。その気持ちはわかるんだけど、でも実際には、現実に従属するんじゃないかっていうのが僕のもの凄く強い思いで……。
なぜかというと、なんだろうなぁ、“従属するものだ”という意識がなく書かれたものが嫌いだと思うんですね。穂村さんと逆のベクトルで。
穂村さんみたいに、“従属してしまうからこそ、より従属しないように書きたい”というのはわかるんです。でも、あからさまに最初から従属しなくていいっていう能天気さで書かれたものには、耐えられないものがあるんですね。
 
穂村 うーん、それは同じ事象を見て、ひとつのことを別々に言ってるから。
 

 

 雑にまとめると、下のAとBの立場があると思われる。
 
A. 短歌はコミュニケーションツールの一環として用いられることもあり、広告にもなりえる。現実と密接に関わってしまうため、そこに悪意のある嘘が入り込んでしまうと、場が崩壊する危険性がある。そのため、表現者は自分の作品に対する責任を負うということと、リスクヘッジのためになるべく嘘の経歴を述べるべきではないし、作品も嘘を混ぜるべきではない。
 
B. 短歌は芸術作品としてあるべきで、作品そのものと表現者は切り分けるべきである。表現者は自分の作品が読者にどう受け止められようと責任を持つべきではない。そのため、作品内に嘘があってもいいだろうし、その嘘によって、何かの問題が起きても表現者には無関係な話である。
 
 個人的には枡野さんはAの立場寄りだし、穂村さんはBの立場寄りに感じた。
 ただ、これは表現を受け止める側の問題というか、本来であれば深く考える話ではないのかもしれない。私達は普段、作品を読む上で、作者の背景を知ってから読む時もあるし、知らないまま読む時もある。知ってしまえばそれに引きずられてしまうことは避けられないし、知らないでいれば勝手に想像するのだろう。もしかしたら、小説などでは作者の背景はほとんど影響ないが、短歌は背景の影響を受けやすいものなのかもしれない。ここで、作品が作者の思想の表れだとしたら、背景は作者の行動の表れと言える。この二つは人間が生きている以上、常に間に矛盾を孕んでいる。私達は思想のみで生きているわけではないし、行動のみで生きているわけでもないからだ。そのため、問題がなければ、存在する矛盾は無視できるが、何か問題が起きてしまうと、矛盾があることを許せない人たちによって、攻撃されてしまう危険がある。*3
 つまり、Aの立場寄りの人であれば、矛盾が気になるだろうし、Bの立場寄りの人であれば矛盾は気にならない、と思う。どちらの立場が良いとかではなくて、Bの立場をとりたいのに、社会生活をする(人とのコミュニケーションをとる)上でAの立場寄りにならざるをえなくて、そこが完全に詩に殉ずることのできない人間の悲しさだなと思う。
 
 ただ、人は死んでしまえば行動をすることはできず、思想だけが残されることになる。対談の後半で、死んでしまえば背負うものがなくなると穂村さんがおっしゃっていたのが興味深かった。
 
枡野 ほんと!?  なんか、その、“君の背負ってるものを僕も背負うよ”みたいな短歌があるじゃないですか? 正しくはなんだっけ、“君の悩みも僕は背負うよ”みたいな短歌……。(<立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ>木下龍也)
そういうときに、ほんとにそうなの、と。「本当にあなたは私の背負っているなにかを一緒に背負ってくれるのですか!?」と言いたくなっちゃうんですよ。
で、そこから、そのチャーミングな短歌の若い人たちみんなに、「ほんとにそうなの?」「ほんとにそんなにいっぱい作れちゃうの?」って思っちゃうんですよ。
僕は短歌、少ないんですよ、発表したものは。
そこで、言葉として素敵ならいいのかなって。本当にあなたはその人を背負う覚悟があるのかってところで揺れ動いてしまうんです。
 
穂村 今はね、枡野浩一も木下龍也も生きてるからね、背負うとか背負わないとか言えるけど、何十年後かには背負うも背負わないもなくなるじゃん、死んでるんだから。
 
枡野 まあね。
 
穂村 だけどそれなのに、残った言葉をみると、“この人は背負えなかったのに、生前、背負えると言っている”みたいなことがなぜかわかる。これはなぜわかるのか? 僕も不思議で、知りたいんだけど。ま、わかるような気がするってことなんだろうけど。
 

  

 橄欖追放の「第63回 青磁社創立10周年記念シンポジウム見聞記」の記事を読んでいたら、斉藤斎藤さんのことを「原理主義者(ファンダメンタリスト)」と呼んでいるのが言い得て妙だと思った。
 
斉藤は原理主義者(ファンダメンタリスト)なのである。ここで言う原理主義とは、思想 (=言葉)と行動との完全な一致を個人のレベルにおいて厳格に要求する立場を言う。
 
腹が減っては絶望できぬぼくのためサバの小骨を抜くベトナム人
                        『渡辺のわたし』
勝手ながら一神教の都合により本日をもって空爆します
 
 このような歌を作る斉藤を、かねてより倫理観の強い人だとは感じていたが、その漠然とした印象はまちがってはいなかったわけだ。しかし原理主義が厳しい道であることはもちろん、危険な道であることもまた覚えておかなくてはなるまい。個人の生の態度としての原理主義の行き着く所は畢竟、革命(=テロ)か宗教しかない。思想 (=言葉)と行動の不一致を劇的に解消するには、世界を根底から変革するか、自分を根底から変えるかのどちらかしかないからである。そしてその二つはほとんど同じ性質のものである。
 

  

 そう考えると、斉藤斎藤さんは、思想と行動が完全に一致するタイプなのだ。人は生きていて行動をしている以上、思想と行動の間の矛盾を完全になくすことは難しくて、行動をなくして思想だけを残す(死んでしまう)以外に、上のAの立場の人から矛盾を指摘される可能性を常に持っている。だから斉藤斎藤さんのように思想と行動が完全に一致する人はある意味で化物みたいなものだなと思った。
 
 話は少し変わるのだが、死んでしまえば思想だけが残ると言うと、今回の対談でも名前のあがった村上春樹の、「ノルウェイの森」の登場人物である永沢の言葉が思い出される。
 
 永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。僕は人生の過程で数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってきたが、彼くらい奇妙な人間にはまだお目にかかったことはない。彼は僕なんかはるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。
現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短かい」
「永沢さんはどんな作家が好きなんですか?」と僕は訊ねてみた。
バルザック、ダンテ、ジョセフ・コンラッド、ディッケンズ」と彼は即座に答えた。
「あまり今日性のある作家とは言えないですね」
「だから読むのさ。他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥かしいことはしない。なあ知ってるか、ワタナベ? この寮で少しでもまともなのは俺とお前だけだぞ。あとはみんな紙屑みたいなもんだ」
「どうしてそんなことがわかるんですか?」と僕はあきれて質問した。
「俺にはわかるんだよ。おでこにしるしがついてるみたいにちゃんとわかるんだよ、見ただけで。それに俺たち二人とも『グレート・ギャツビイ』を読んでる」
 僕は頭の中で計算してみた。「でもスコット・フィッツジェラルドが死んでからまだ二十八年しか経っていませんよ」
「構うもんか、二年くらい」と彼は言った。「スコット・フィッツジェラルドくらいの立派な作家はアンダー・パーでいいんだよ」
 

  

 この言葉は何だか印象に残っていて、私は、生きている人間の作品を評価するとき、どうしてもその人の背景(行動)が気になってしまうのであれば、いっそのこと死んだ人の作品のみを論じるべきなのかな、と時々思う。この作品は素晴らしい、作者が普段どんな人間でも作品の評価は変わることは絶対にない、と言い切れるのが理想ではあるけど(上のBの立場)、そこまで割り切れるとも思えなくて、自分の作品もそこまで割り切って読んでもらうのは難しいのではと思う。そもそも作品が行動から生まれることも多々あるし、行動が作品の影響を受けることもある。しかし、作品そのもので行動がすべて変わるわけではないし、行動そのままが作品に表れるわけでもない。難しいけど、生きている人間の作品だからこそ、その思想を直接本人に聞く機会も持てるし、それは作品を通したコミュニケーションと言えてメリットなのかなと思う。
 
 この対談、本当に興味深くて、ジャンルによる表現の透明度の差はなるほどと思ったし、何となくここの認識の差異が論争の火種となるのかなと思った(乱暴な言い方をすれば、ある人は短歌をドキュメンタリーだと見做すし、ある人は純粋な創作と見做す)。また、自己愛のため創作(要は承認欲求のことだと思うのだけれど)というのは自分によく当てはまるなあと。良いか悪いかは別として、戦争や震災がなければ、そういうのが作られていくのかもしれないと思った。
 
穂村 自分でも言ってるけどさぁ、基本、枡野さんは欲望がそう強くないから、誤魔化しや隠蔽がない態度を首尾一貫して主張できるんであって……。普通の人はもっと、恥ずかしい欲望をもってしまっているので、そこ(欲望をもたず、誤魔化しや隠蔽をしない枡野浩一)にはつきあいきれないし、責められるといつも不利みたいな感じになってしまうっていう……
 
枡野 なんでみんな、そんなに欲望があるんでしょう?
 
穂村 それは、ひとつには、日本がずっと平和だったからで、ミッションがあれば、そんなに欲望は発達しないと思うのね。
 
枡野 はい。
 
穂村 例えば、フェミニズムでもいいし、戦争でもいいのね。そういう大きなミッションが自分の中に大きなテーマとしてある場合は、「自己愛」とか「自己実現」とかは相対的に度外視される、と思う。自分にとって最大のミッションであるテーマ、「戦争」や「原爆」を書いて、その後、自殺……みたいな作家もいるわけだけど。
そういうのを聞くと凄く自分とは反対側の人間だなと、僕は思う。そういうミッションが何もなければ、残されたものは“ぼんやりとした自己愛”みたいなもので、それがどんどん大きくなっちゃうと思う、自意識や自己愛が。
それで、何もしたことがないのに、世界が自分に好都合であればいいという感覚だけが凄く発達して、1回でもダメ出しをされると物凄い衝撃で、逆上してしまうみたいな……。
そういうメンタルの人って凄く多いけど、僕は自分がそういうのの走りだなって思うところがあって……
 

 

 最初に述べたとおり、対談を読んで感じた私なりの意見なので、枡野さんがこう考えたかどうかは分からない(散々書いていてこの逃げは卑怯だけれど)。私自身が広告業をやっているので、何となくこう感じた。
 いや、そもそもお前は本名でやってないじゃん、と言われてしまうかもしれないけど、もし本名以外認めない、作品に嘘を認めないというスタンスの人がいたら、その人から評価を得られないのは仕方がないと思う。だから、そういう場に作品を出すのであれば、それは本名でやるし、嘘もつかないようにする。とある件もずっと考えているのだけれど、「嘘をついてはならない」と主催者が予め表明せずに賞を出してしまったのであれば、これは作者の立場は別にして、賞を出すべき価値のある作品だと主催者が表明するべきだったのではと今現在は思っている(また、考えが変わる可能性もある)。
 
 超余談だけど、こんなのあったね。

*1:ちなみに、枡野さんと斉藤斎藤さんの筆名についての論争はTogetterで読んだが、私は「穂村弘ワンダーランド」も読んでないので、何も言えないし、どちらが正しいかは本筋ではないので、ここでは言及を避ける。ここでは対談を読んで感じたことを、私なりの視点で分析したいだけだ。ただ、斉藤斎藤さんもおそらくこの対談を読んで、「穂村弘ワンダーランド」内の記述をTwitterで載せているので、Togetterとともにリンクを貼っておく。あくまで個人的な印象では、斉藤斎藤さんに悪意があるとは到底思えないので、そこまで突っ込む話ではないと思ってはいる。

https://togetter.com/li/369822

https://twitter.com/saitohsaitoh/status/1029550645718609920

*2:もちろん、ここで枡野さんが指摘をしているように、斉藤斎藤さんの名前が本名でないとしても、斉藤斎藤さんが悪意を持って本名を偽っているという意味ではない。会ったことも、お話をしたこともないが、そんなことをする人だとは思えない。

*3:ここでも念のため断るが、枡野さんがAの立場寄りで攻撃する人だという意味ではない。枡野さんがAの立場寄りだというのは対談を読んだ私の印象だし、仮に枡野さんがAの立場寄りでも攻撃をする人ではないと思う。ただ、作品と作者を結びつけて攻撃する人というのは一定数存在していて、私も何度かその現場を見たことがある。