日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

物語は終わる

 体調が悪い。
 例えば。例えば、なんだろう。
 例えば、で話し始めると、近所のお寺のお坊さんみたいだ。昔はそういう人がいて(今もいるかもしれないが)、法事とか葬式の時とかにやってきてお経を唱えてくれる。うちは檀家ではなかったとは思うのだけれど、そういう時は決まったお坊さんが来てくれた。それで、お経を唱え終わったあとに、色々話をしてくれる。家族の大切さとか、悪いことをしたらどんな罰を受けるかとか、四十九日の意味とか、そういう所謂ありがたい話だ。例えば昔こんな家族がいて、例えば盗みをすると巡り巡って。田舎のおばあちゃんなんかもたとえ話が好きそうだ。生憎実家は二世帯住宅で父方の祖父母と同居していたし、母方の祖父母も同じ市内に住んでいたから、田舎という概念が私にはないのだが。
 
 ビジネスでもたとえ話が上手いと良いみたいな風潮があるような(知らない)。「例えば」という話や、「もし」という仮定の話をよく聞く(知らない)。結局言語コミュニケーションだから、分かりやすいことが重宝されるのだろう。宗教もそこに行き着く。ビジネスにおいて必要なのはツールとしての言葉の利便性であって、ポエジーではない。
 詩作においてはどうかなと思うけど、以前夕焼けの色を「琥珀色」と喩えたが、それが上手いとも思えないし、結局新たな枠を作ってしまっただけではないのかと思う。言葉を磨けば磨くほど、感動を失ってしまってはいないだろうか(知らない)。ポエジーを求めて、上手い言い換え言葉を求めるが、それは正しいのだろうか。上手いこと言いますね、というのが蔓延してしまう。しかし、逆説的に感動ってどこから生まれてくるの? 言語コミュニケーションの賜物じゃないの? と問われると、はいそうですねと答える。よく物を知らないので。
 
 各国のエンゲル係数を見ると楽しい。日本は25%超えていて、アメリカは20%以下だ(2008年)。韓国は30%超えている。みんな100%超えてほしい。エンゲル係数120%。借金をしてまで食に命をかける人々。
 
 
 美味しいものを食べるのは、死ぬ時のためだ、というのを見た。曰く、死ぬ時に美味しいものの記憶を思い出せば、「ああ良い人生だったな」と思えるだろうと。そうなのかな。今かなり体調が悪いので、死ぬ寸前に考えることを心配をするということ自体が、あまり精神的に宜しくないと思うのだけれど、何事にも備えが必要なのかもしれない。もしかしたら、死んだあとも思考は持続するのかもしれない。それは、少し恐怖だ。
 死ぬことは物語で、そこには感動が存在している。人間は絶対に死んでしまうから。もし人間が死なないなら、死んだあとも思考が存在するのであれば、ここまで物語は生まれなかっただろう。
 私は、体調が悪い時は、ほっといてもいずれ死ぬし、くらいの気持ちで、自ら命を絶とうとは思わないのだけれど、それは体調が悪い時でもなんとか生きていられる環境があるおかげで、幸せなのだろう。でも、もっと突発的なものが来たら分からない。ただ、「17歳のカルテ」を読んだ時は、「自殺は完全犯罪だから完璧な計画が必要」という記述があった気がするが、どっちだ。
 
尊厳が無くとも飯が食えれば人は生きられる
飯が無くとも尊厳があれば人は耐えられる
だが両方なくなるともはやどうでもよくなる
何にでも頼る
 

 

 単純に寂しいのである。寂しいから、詩を作るのである。物語を書くのである。お互いを100%理解し合うということが不可能と知りつつも、100%理解するという幻想を追い求めることをやめられないのである。「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人で」、人が恋しいという気持ちを抑えられないのである。