日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

超丁寧な暮らし

丁寧な暮らし
歩みは遅く
一歩ずつ
確実に
よく噛んで
ゆっくり食べる
 
手作りの絵本
284色のクレヨン
木造図書館
結末の変わり続ける物語
 
鉱石ラジオ
ランタン
手作りベーコン
銀色のソーダ
 
三十年かけて育まれる愛
終わらない旅
ハングリーストライキ
瑪瑙の水楼
スロウカーブ
僕と君のログ
 
丁寧に生きていくこと
と同時に死んでいくこと
一瞬を切り出して
コルクボードに貼り付けてみる
 
丁寧すぎて
短すぎる寿命
散骨
再 会するための

バイト日記その1 選挙(だがその2はない)

 先日選挙の手伝いのバイトに行った。このブログを読んでいる人の中には(画面の向こうのあなたです)、選挙のバイトって何やねんって感じかもしれないが、投票会場でアレやコレやする仕事だ。なぜ、今回この労働を行ったかと言うと、純粋にお金がないからである。純粋金銭欠乏症である。お金がないとどうなるか? 人生は無課金では過ごせないようになっており、私の場合は、お金がないといずれ同質量の塩になってサラサラと風に流されてしまう。孟子曰く、水は低きに流れ、人は易きに流れる。万物は流転する。しかし、労働をすればお金を発生させることができる上に、人間としての同定が可能だ。労働という無から、賃金という有が生まれる。プチビッグバンである。すごい。労働が無課金どころかマイナス課金でできるなんて、素敵だと思いませんか?
 仕事内容の詳細を言ってよいのか分からないため言わないが、簡単に言うと、会場で本人確認をしたり、投票用紙を渡したり、人間を会場へ誘導したり、会場から追い出したり、観察したりする仕事である。選挙に行ったことがある人は、椅子に座って忙しなく振動をしている存在を見たことがあるでしょう。あれは大いなるものの一部であり、あの日の私もそうでした。ちなみに、所謂「選挙立会人」と呼ばれる、椅子に座って振動すらしていない人々(しかし近くで観察すると、大陸のように実はゆっくりと移動しているのだ)は、その地区の町会だかなんだかの人がやるらしく、労働の区分ではないらしい。
 この労働を始める前は、『投票率も最近は下がっているらしいし、そんなに人も来ないだろう。座っているだけならめちゃ楽じゃん』と考えていた。もちろん、この考えが間違っていたことを、後に歴史が証明することになる。投票率が下がっているとは言え、それを見越して会場の労働者はギリギリで手配されるし、なんだかんだ何千人もの人々が一日で大挙してやってくるので、映画の「300 〈スリーハンドレッド〉」のようにその全てを対処する必要がある(映画未見)。この日だけで、投票用紙が出てくると同時に機械から発せられる「区議会選挙です」という無機質な声を何千回と聞かされた。これだけで気が狂いそうだ。気狂いピエロ。思考を無にしながら、本人確認や選挙の紙を渡す作業を腱鞘炎になりかけながら行った(仕事はローテンションで回された)。ちょっとでも気を抜くと、意識が飛んで永遠と投票用紙に「マック赤坂」と書く地獄に入り込み、もうこの世界に帰ってこられないような気がしたため、なんとか最後までやり通した。ちなみに、所謂「選挙立会人」と呼ばれる、椅子と机の中間の生命体のような人々は、選挙の始まりから終わりまで永遠に選挙会場をさまよい、座ること以外のことをしたいと思ってもできないので、カーズ様のように考えるのをやめることとなる。彼らは人間が紙に鉛筆を滑らせ、その紙を箱の中に入れる作業を一日中眺めることになる。村上春樹ねじまき鳥クロニクルの主人公のように、一日中新宿駅の前で人の流れを見ている行為に近い。いくら座っているだけとは言え、私にはちょっと無理だなとこの一日で感じた。めちゃくちゃ楽とか思っていてすみません。
 
 まあ、なんだかんだ一日を終え(朝6時半集合だったため4時半に起き、会場の後片付けを含めて終わったのが21時)、色々と良い経験になったなと感じた。賃金は三分の一で良いから、拘束時間を半分にしてほしいと思ったのは内緒だ。
 選挙に来る人達も、選挙に行くと思っている時点で民度が高いのか、私が多少受付でもたついてしまっても、怒鳴ったり殴ったり地下送りにしたりせず、「お疲れ様」と声をかけてくれた。何気ない人の優しさに、ふと涙が零れ落ちた。
 
何が どうしたの わかんない 聞きたくない
クツが 片方 どっかに 消えた
俺は どうする どこに 行こう
でもね 本当は 本当は
 
朝になってた カラスの親子 呼び合ってる
俺はちょっとだけ 嬉しくなって 立ち上がる
 
涙がこぼれそう でラブコール あの娘にラブコール
涙がこぼれそう でラブコール あの娘にラブコール
 
『涙がこぼれそう』/The Birthday 

 

 若い人は全然来ないと思っていたが、そんなこともなかったし(我が事感があるためか、小さい子供を連れた夫婦が多かった印象)、18歳くらいの人も結構来ていた。ただ、投票率は50%を切っているというのは事実としてあって、若者たちをどうやって選挙に行ってもらうか、というのはこの先の課題であるとは感じる。
 思うに、現状選挙に行かない人は、きっと齢をとっても行こうとは思わないだろう。選挙に行くという行為に価値を見出だせないからだ。しかし、この先老人が死に、選挙に行かない若者たちが齢をとっていき、若者の数も増えないと思うと、今選挙に行っている人たちの一票の価値がどんどんと重くなって、選挙に行く人が有利な国になっていくと思う。その時に、今まで選挙に行かなかったことを嘆いても遅い。現状は選挙に行くことに価値を感じなかったり、選挙に行っても何も変わらないと思ったりするのは、確かに私も同意をしたくなるが、ひとまず行くという習慣はつけておいた方が良いように感じた。地方選挙なんかは結構票が拮抗しているので、自分の一票が政治を左右しているのをひしひしと感じることが可能だ。期日前投票も、実は2003年に始まった比較的最近制度で、また手ぶらで行ってもその場で住所確認をしてくれて投票が可能で、選挙がしやすい体制は徐々にできているのではないだろうか。そのうちネットで投票することも可能かもしれないが、一般人が政治に関われるのは本当に選挙くらいだから、特に気負いをせず、政治に関心があるという意識を高めるためだけでも、選挙に行かない人は、今度の夏の参議院選挙に行ってほしいと思う。

プラスチック

クリエイティブの死
保存された何か
僕、私、何者でもない生
 
カバンにはいつも
プラスチックのナイフとフォークが入っている
それらを使って
いつか食べたい
たくさんの美味しいもの
生きるために
必要な栄養素
たん白質
ヴァイタミン
無機物
 
パンケーキに
蜂蜜をかける瞬間が
一番幸せだ
その黄金の液体
トロリと融けかけた
バターとの融合
プラスチックのナイフとフォークで
丁寧に切り分ける
綺麗に八等分する
完璧な真円
三百六十度の円から
四十五度分の扇を切り取り
口へと運ぶ
 
僕は僕の
必要なものだけを口にして
大きくなりたい
プラスチックのナイフとフォークで
美しいものの
そのほんの一部だけを
切り取って
口にして
もうそれ以外は
何も食べなくても済むように
そうなりたいのだ
だからこそ
いつだって
美味しいものをだけを食べられるように
プラスチックの
ナイフとフォークを
持ち歩いているのだ

詩について

窓際のディスプレイにはガラスの容器が置かれている。
僕はそれを遠くから眺める。有り体に言えば、ガラスには外からの光がキラキラと反射してとても綺麗だ。
一歩ずつそれに近づいてみる。ゆっくりと、慎重に、音も立てずに。
そうやって近づいていくごとに、印象が変わることに気がつく。
遠目に見たときには、ぼんやりとしたものが、よりはっきりと見えることに気がつく。
 
しかし、目の前に立ってそれを手にした時、僕はひどく後悔をしてしまう。
床に叩きつけて粉々にしたくなる。
僕の手には負えないものだったのだ。
手にとるべきではなかったのだ。
それは大事に棚の中にでも閉まっておくか、
アクリルケースに入れて誰の手にも触れないように展示しておくべきだったのだ。
 
僕は詩を読む時に、それに似た感情を抱く。
初めはただキラキラと輝いている全体が見え、僕は一瞬のうちに目を奪われ、
そしてゆっくりと近づくかのように、一文一文を丁寧に読みながら、細部を解き明かそうとする。
僕の中の扉は開かれていて、光が余すことなくもたらされる。
でも、それは子供が無邪気におもちゃを解体するようなもので、何も考えてないのと一緒だ。
子供はバラバラになったおもちゃを見下ろして、泣き叫ぶことになるだろう。
それはおもちゃを失ったことの悲しみではなく、自分自身の愚かさを嘆いているのだ。
僕も同じだ。
僕が詩を解き明かそうとした瞬間、その輝きは永遠に失われ、僕は自分の愚かさにひどく嘆くことになる。
あるいは僕の中の、もう閉じてしまった扉の前で呆然と立ち尽くすことになる。
扉には鍵穴はなく、あるのは一面の白い壁に似た、いや結局それは扉ではなく壁なのだろう。
そこに寄りかかり、何度詩を読んでみても、何度呼びかけてみても、何も返ってこなくなる。

再会と再開

 もう何年も会ってない人と、偶然街で再会をした。そういったことは人生においてそうそうあることではないが、全くないことでもない。久しぶり、偶然だね、元気だった、といったお決まりの会話がなされた後、お互いに用事を抱えていたので、今度ゆっくり話をしましょうと言い合い、連絡先を交換して別れた。それが一週間前。二週間後の土曜日に会う約束をしている。
 次に出会って、何を話そうか。お互いの近況報告を済ませ、過去の思い出話に花を咲かせ、それからは? 今更夢や未来の話を? この歳になって?
 単なる偶然にすぎないと言ってしまえばそれまでだが、奇妙な巡り合わせにも思える。本来であれば必要のない再会である。彼女と別れてから今まで、私の人生において、彼女の存在はそこまで質量の大きいものでもない。今まで私の人生において彼女の存在は必要なかったし、これからもそうだろう。極端なことを言ってしまえば、私にとって彼女は死んでいるのと同じだ。彼女にとっても、私の存在はきっとそうだろう。もし、街で偶然再会しなければ、彼女の死すら知らなされないままに私は死ぬまでを過ごしていたかもしれない。今なお、観測外の宇宙では、存在を知ることのない星が生まれては死んでいるのだろう。観測可能な範囲の宇宙の中ですら、私は星が消えたことに気づきもしない。幼い頃に勝手に名前をつけた、青く輝くその星も。
「この世界ではもう出会うことはないかもね。きっと次に会えるのは、別の世界だ」
 そんな感じのことをお互いに言っていた。本来出会っていけない存在。出会うべきではない存在。私が二週間後の土曜日に会うのはきっと死者だ。私は彼女にとっての死者として、彼女は私にとっての死者として、生者の世界でもう一度出会い、話をすることになる。なんだか、何かを冒涜しているようにも感じる。死者と出会う時、それに相応しい格好がある。相応しい場所がある。相応しい時間がある。私はきちんとそれを満たしているのだろうか。
 そうして再会をしてしまえば、本来起こってはいけないことが起こってしまえば、おそらく次の扉が開かれる。この世界ではない、どこか別の世界への扉が。私は(あるいは彼女は)、その世界に引きずり込まれる。私は今一度この奇妙な巡り合わせについて考えを巡らせてみる。そして、この前出会ったときの彼女の顔を思い出そうとする。しかし、うまくいかなかった。彼女の顔は、数年前に別れた時そのままで保存されていて、上書きがされていなかった。次に出会うことができれば、その顔は更新されるだろうか。おそらくされないだろう。死者は齢を取らないからこそ、美しく、尊いものなのだ。
 
 
 
短歌を始めるきっかけが、タイムラインに千種創一さんの以下のツイートがリツイートされてきたからというのをふと思い出して、なんか書きました。
 

 

宇宙船

鬼灯の宇宙船に乗って
銀河へ言葉の種を植えにゆく
言葉は一度死ななくては意味を持てない
僕らはたった一度の死で意味を失ってしまうけれど
(君はきっと元々意味なんてなかったと言ってそれを否定するだろう)
 
天の川の向こう側は
白黒の世界だ
淡い闇が満ちていて
誰もその正体に辿り着けない
できることは線の上を慎重に歩くことだ
落ちてしまえば時間と空間から切り離される
それはそれで幸せなことだと
百万年生きる鸚鵡貝が言っていた
 
薄羽蜉蝣は人生の意味を知っていて
笑い翡翠は気難しい顔をしている
青蜆蝶は正直者だ
蝿はその美しい翅を震わせている
唯一星座でいられることを許された存在だから
 
最後に燃え尽きた星の名前は忘れた
宇宙はすっかりと冷え切っている
君が言った冗談めいた告白が
ついさっき、ようやく宇宙の果てへと届いて
僕の魂を燃やし始めた
それだけが僅かな炎で
確かな炎で
仄かに温かい

スマホ

 スマホを交換した。iPhone XS(店で「アイフォンエックスエス」と呼んだら「アイフォーンテンエスです」と店員に訂正されてムカついた)。元々iPhone 6を使っていて、iPhone 8でいいかなと思っていたのだが、iPhone 8iPhone Xは64GBのモデルしかないと言われてしまったので、悩んだ結果、一番新しいのにした。
 iPhone 4Sを買ったのが2012年で、iPhone 6を買ったのが2016年で、今回iPhone XSを買ったのが2019年。購入間隔が、4年→3年と短くなっている。次は2021年に買うかという話になるけど、正直なところ今回一番新しいのを買ったのだから、5年位使いたい。でも、多分その前に買い換えることになると思う。今のスマホは5年も使えるように設計されていない。大抵バッテリーがダメになる。
 今回買い換えたのも、ディスプレイが壊れてしまったからなのだけれど、これも使おうと思えば使い続けることができた。ただ、バッテリーがもうだいぶへたってきていたし、動きもだんだん遅くなっていたし、iOSのアップグレードもそろそろできなくなってソフトも使えなくなりそうだから、ディスプレイ交換するくらいならということで、機種変更をしてしまった。今まで買う時は一括で購入するようにしていたのだけれど、手持ちがないので、分割払いにした。この先二年間購入代金を支払い続けることで、たった今最新機種を手にすることができる。どこかいびつだ。「現在のものに対して支払いを未来に行うのは借金だが、未来のものに対して支払いを今行うのは投資である」というのは今考えた言葉だけれど、つまりは借金をしている。
 まあ、とにかく借金をすることで、最新機種が手に入る。容量が64GBから256GBになった。4倍だ。iTunesの曲を全部入れてもまだ半分以上空きがある。パソコンのiTunesの曲は全部聞き終わるのに46日かかるのだが。そして、この中でもうこの先一生聞くこともない曲がある可能性がある。なんか悔しいので、とりあえず音楽を全部入れた。昔はiPodで40GB容量があるというのだけで、無限に音楽を入れられる気がしたけれど、いつの間にかそれだけでは足りなくなってしまったようだ。そして、iPodはHDDで壊れやすかったけど、今はメモリだ。壊れにくい。
 それでも、多分5年はもたないだろう。なんだか生きるのを急かされている気持ちにすらなる。齢をとったのだろうか。とったのだろう。壊れてもいないものを、無理に買い替えている感じ。新しいものが無条件に良いと信じること。新しいことは確かに良いことだけれど、古いもので十分生きていくことはできるはずだ。綺麗な写真を撮ることも、高画質のゲームをやることも、マルチタスクを行うことも、本当は必要ないことなのかもしれない。
 ソフトウェアがどんどん新しくなっているのに、ハードウェアがついていけていない感じ。落としても割れないガラスとか、水につけても大丈夫な仕様とか、バッテリーの持ちが良いとか、そういう方向に進化すると買い替えが進まないから良くないのだろう。Windowsも7で十分仕事も趣味もいけるけど、そのサポートもいずれ終わるし、PCの寿命も10年も持たない。公転速度が変わらないのに、自転速度だけが早くなる。一日が慌ただしく過ぎていく内に、桜が咲いたことにも散ったことにも気づかないでしまう。
 
 確かにテクノロジーの進歩は凄いと感じる。しかし、それと共に人間の心も進歩しているのかというとどうなのだろう。
 そもそも、インターネットは確かに素晴らしい技術だが、人類が火を使用したことや、文字の開発、時間の概念を身に着けたことや、ゼロの発見に比べてダイナミックな変革かというと疑問である。
 もし、人間の本質的な価値観というのが変わっていないのだとしたら、例えば平安時代の人が源氏物語を読んだ時の感動と、今の私達が読んだ時の感動はそう変わらないのだろうか。枕草子の「春はあけぼの」の心の動きは今の私達にも通用するものだろうか。きっとするだろう。私個人としては、そういった本質的なものを追い求められればいいのにと思う。まだよく分かっていないけれど。
 
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ/西行
 
どうか僕に海を与えないでください
美しい景色を知ってしまいますから
どうか僕に音楽を与えないでください
心地よいメロディを知ってしまいますから
どうか僕に花を与えないでください
芳しい香りを知ってしまいますから
どうか僕に食べ物を与えないでください
忘れられない味を知ってしまいますから
どうか僕に恋人を与えないでください
人と触れ合う喜びを知ってしまいますから
 
どうか僕に両親を与えないでください
産まれてきてしまいますから
どうか僕に空間を与えないでください
あなたの場所を奪ってしまいますから
どうか僕に時間を与えないでください
死ぬ恐怖を知ってしまいますから
どうか僕に思考を与えないでください
眠れない夜を迎えてしまいますから
どうか僕に兄弟を与えないでください
憎しみと許しを知ってしまいますから
どうか僕に過去を与えないでください
思い出に浸って帰ってこれなくなりますから
どうか僕に未来を与えないでください
何かに期待して生き続けてしまいますから
どうか僕に物語を与えないでください
夢を持ってしまいますから