日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

ブルーギル

 目が覚めると、身体全体が渇いている心地がした。熱はなかった。左腕の痛みもほとんど引いていた。静かだった。世界中から、潮が引くように音が消えてしまったようだった。ただただ乾いた気配が、僕の周りを覆っていた。
 耳を澄ましてみる。案の定、何の声も聞こえてこなかった。どうやら僕は、一パーセントの人間のようだ。
 “カミサマ”の声が聞こえるようになる、という触れ込みの注射を僕が打ったのは二日前だった。それが完成した当初、効果の怪しさと副反応の強さから、摂取を希望する人はほとんどいなかった。ところが実際に摂取をし、カミサマの声が聞こえるようになった人たちの幸せそうな様子がテレビに流れ出すと、次第に我も我もと摂取を希望する人で溢れ出した。するとまるでその事態が予測されていたかのように、政府によって大規模な接種会場が用意されることになり、毎日何万人もの人がその会場で注射を打たれていた。
 しかし、注射を打った全ての人がカミサマの声を聞けるようになるわけではなかった。割合として、一パーセントの人間は声が聞こえなかった。原因は分からなかった。年齢や性別や持病などとは関係なく、百人に一人の人間が何者かによってランダムに選ばれているようだった。そして僕は、その選ばれた人間だった。

 

 テレビをつけると、宮殿の映像が流れ出した。画面の右上に“LIVE”の文字が見える。僕が二日前、駅から接種会場へと向かうバスの中から見た宮殿だった。二日前は雨が降っていて、バスの窓の向こうの宮殿が霞んで見えた。今日は晴れているために、テレビの中で宮殿はその荘厳な姿をくっきりと映し出していた。
 宮殿には“テンシ”が住んでいた。テンシというのは、何千年も昔からこの国を治める者のことだ。ただし現在では憲法での名目上のものだけとなっており、現実には民間から選ばれた人間が国会で国の運営を行っていた。
 テンシが宮殿から出てこなくなったのは、百年以上前のことらしい。ある日、テンシは住まいである宮殿の門を固く閉ざすと、濠に架けられていた宮殿と外界とを繋ぐ唯一の橋を落としてしまった。それ以来テンシは一切姿を見せることはなくなり、存在を仄めかすものは、正月や建国記念日などの特別な日にラジオを通じて披露される肉声のみとなった。その声も百年間全く衰えなかったため、合成されたものではないかと噂されたが、「テンシは人間を超越したのだ」と主張する勢力も現れていた。
 宮殿の内側でテンシがどのような生活を送っているのかは、国民は全く知ることができなくなった。上空から中の様子を窺うために何度か気球が飛ばされたが、レーザーの白い光によってことごとく撃ち落とされた。濠にはテンシが密かに育成し増やしていた、肉食の凶暴な魚が何百匹も放たれ、濠からの侵入を防いでいた。魚の名前は“ブルーギル”といった。
 そのうちに、国民の誰もがテンシが本当に存在しているかどうかについて気にしなくなった。姿は見えなくとも、年に数回の式典で声が届けられればそれで十分であり、国営には何の支障もなかった。憲法に「帝国ハ万世一系ノテンシ之ヲ統治ス」の一文だけが残された。国会で食料の問題が議論にのぼったこともあったが、「テンシは食事の必要がなくなった」という意見が押し通された。宮殿の下には巨大な地下道が張り巡らされていて、人知れず食料が運び込まれていると唱える者もいた。何れにせよ、記録としてテンシの姿を写した写真も残っておらず、国民にとってテンシは、自分たち人間とは異なる一種の概念のようなものになっていた。

 

 テレビの映像が一瞬乱れた。レポーターが宮殿の門の側に立ち、興奮気味に話している。
「ついにテンシが御姿をお見せになるのです!」
 聞いたことがあった。品種改良によって不妊化させたブルーギルを濠に放流し、何世代もかけて駆除するのだ。テンシが閉じ籠もってからすぐに研究が開始されたと聞いたことがあったが、本当に実用化されているとは思わなかった。
 レポーターの近くで、軍隊が丸太を門にぶつけて破壊しようとしていた。爆弾でも大砲でも使えば良いのではないかと僕は思ったが、門のすぐ近くにテンシがいることを考えているのかもしれなかった。その軍隊を囲うように、いくつものデモ隊が『テンシにも人権を!』とか『テンシの神聖を汚すな!』といったプラカードを掲げて声を張り上げていた。
 門が破壊され、人々がなだれ込む。「テンシはどこにいらっしゃるのでしょう」とレポーターが叫び、カメラが宮殿内部のあちこちを映し出したが、宮殿の中は伽藍としていて、生物の気配が感じられなかった。
 次々と扉が開かれ、カメラが宮殿の奥まで進んでいく。ついに一番奥の部屋に到達すると、カメラが映し出したのは大きな水槽だった。
 水槽には一匹のブルーギルがゆったりと泳いでいた。ブルーギルは世間で知られているものよりも何十倍も大きく、畳一畳は優にありそうだった。身体の表面は神々しく輝き、鱗の一つ一つが翡翠色に発光していた。
「テンシは、どこにもいらっしゃいません……」
 レポーターが消え入りそうな声でそう言った瞬間、映像がブツッと途切れた。テレビの電源を何度も押してみたが、映像は二度と戻らなかった。
 僕は目を閉じて、もう一度だけ耳を澄ましてみた。やはり、何の声も聞こえなかった。