日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

靴を買いに行った話(短編小説)

 
 僕がたった一人で見たり聞いたりしたことについて、それが本当のことなのかどうかは証明の仕様がない。僕はなるべく正確に伝えようとするけれど、僕というフィルターを通して話す以上、本当に正しいことなのかどうかを僕自身が語ることはできない。その上それは既に過去の出来事であり、誰も僕が見たり聞いたりしたことを再現することはできないのだ。
 文章を書くことはそれに少し似ているかもしれない。今思っていることを言語化しなくては、後から見た時全て嘘になってしまう。時間の流れというフィルターを通してしまうと、その時の思いというのは一切合切失われてしまう。
 しかし、人や時間のフィルターを通さずに、存在することは可能だろうか。
 古典的な命題だけど、誰もいない森の中で木が倒れたとしたら、その時に音はしたのか、しなかったのか。
 自分で書いた文章をインターネットにアップロードし、誰からも閲覧されないように非公開設定にしたとしたら、その文章は存在しているのか。
 神や検索エンジンは果たして観測者となり得るのだろうか。
 誰の記憶にも残っていない人間は、生きているのか、死んでいるのか。
 
 
 その週末の土曜日は靴を買いに行った。
 次の週の土曜日に大学のサークルの後輩の結婚式があり、そのための靴を買いに行ったのだ。恥ずかしながら僕は就職の時に購入した革靴しか持っておらず、その革靴の底も、就職後の僕の精神のようにすり減り、穴が空きそうになっていた。
 僕はそもそもサークルにほとんど顔を出していなかった幽霊部員であったため、その後輩も一回か二回くらいしか会ったことがなかった。しかし、僕の同級生の渡辺が僕のことをしつこく誘ってくれたために行くことにした(渡辺は僕とは違いサークルの中心的存在で、三年時にはサークルの代表を務めていた)。その誘いの時に渡辺から靴屋を教えてもらったのだ。
 
「それで、今度の須藤と真理ちゃんの結婚式、お前も来るよな?」
 先日渡辺とした電話を思い出す。僕はあまり乗り気ではなかったため、靴を言い訳に断ろうとさえ考えていた。
「サークルのメンバーはだいたいみんな来るからな。久しぶりにみんなと会える機会だし、予定がないなら来いよ」
「行くのはいいんだけど、実は結婚式に履いていく靴がないんだ。今持っているのはもうボロボロだから」
「それなら良い店を知ってるから、教えてやるよ。そこで買ってこいよ」
 僕はここで電話を右手から左手に持ち替えた。強引なやつだ。
「本当に良い店だぜ。自分にピッタリ合った靴を売ってくれる。まるで靴が足の一部になったような、履いていることも忘れてしまうような靴を。ただ、靴のサイズを測る時、店主が少しおかしなことを聞いてくるけど、正直にそのまま応えれば大丈夫だから」
 
 渡辺が教えてくれた靴屋は、表参道の駅から少し歩いたところにあった。高級ブティックの並びを抜け、車を一人一台どころか、ペットの犬まで一人一匹飼っていそうな人々が住んでいる住宅街の一角に、その店が入っているビルはあった。ビルは鉄筋コンクリート造の無骨な感じで、建てられてから少し年月が経っているようだった。
 入り口の重いガラスドアを開けると、郵便受けのポストがいくつか並んでいて、すぐにエレベーターの扉があった。受付といったものは存在しなかった。
 エレベーターに乗り込むと(エレベーターはすぐにやってきた)、僕は渡辺に教わった通り17階のボタンを押した。そして、エレベーターが17階に到達し扉が開くと(扉の向こうは闇だった)、降りることはせずに地下29階のボタンを押す。エレベーターは音も振動もなく上へ上へと上がっていき、その後下へ下へと下っていた。あまりに静かであったため、僕はエレベーターが静止しているのかと錯覚したほどであった。しかし、頭上にある電光掲示板は確かにエレベーターが移動していることを示していた。
 エレベーターはほどなくチンという音とともに(僕は自分が電子レンジで調理されていたような気分になった)地下29階に到着したが、自分が本当に29階なのか到着したのか、また先ほど本当に17階にエレベーターが止まったかどうかは分からなかった。このビルはそこまで高いようには見えなかったので、もしかしたら17階というのは、あるいは29階というのは何かのメタファーなのかもしれない。
 エレベーターのドアが開くと、地下29階も真っ暗な廊下が真っ直ぐに伸びていた。僕は一瞬だけ躊躇し、勇気を出して一歩足を踏み出した。するとパッと灯りが付き、廊下が明るくなる。緊張のためゴクッとつばを飲み込み、そのまま歩を進め、固いコンクリートの床をコンバースの柔らかい靴で踏みつけていく。床も壁も天井もコンクリートで覆われていて、壁には一切扉はなく、天井はLED照明が等間隔に続いていた。まるで死体安置所へ続く病院の廊下のように無機質な空間だ。僕の足音以外の音も一切ない。
 一分ほど廊下を歩いていくと、突き当りに灰色の、のっぺりとした鉄の扉があった。看板も何もない。ただ、扉に非常口の例の緑のマークが貼り付けてある。渡辺が言っていたことが正しければ、ここが件の靴屋らしい。何もかもが間違っている。
 一応ノックをしてみたが応答がないので、ドアノブをひねってその重い鉄の扉を押し出す。その時何かがカチッと繋がったような、LANケーブルとパソコンを繋げたような感覚を覚えた。扉の向こうは雪国でも、荒廃した世界でもなく、十畳ほどの狭い空間が広がっていた。
 
「いらっしゃい」
 感情が全く含まれていない声をかけられる。カウンターにいたのは、一人の男だった。ロマンスグレーの髪、黒縁の眼鏡、口元にも髪と同じ色の髭が蓄えられている。もう初老と呼んでも差し支えのない歳だろう。声には感情はなかったが、眼鏡の奥から見える目からは力強さを感じる。まるで人のことを一切信じていないかのような。爛々としたその目と同じものを、僕はテレビのドキュメンタリーで見たことがある。そのドキュメンタリーは、戦争から帰ってきた兵士のその後の生活について特集したものだった。
 店の床には絨毯が敷いてあり、真ん中には小さなソファが置いてあった。そして、壁には古今東西ありとあらゆる靴が展示してあった。革靴やスニーカーやハイヒールはもちろん、サンダル、木靴、足袋、長靴、登山靴やスノーシューといったものもあった。これほど多くの種類の靴が一堂に会しているのを、僕は今まで見たことがなかった。本当にいろいろな種類の靴がある。そして、それらは全て同じ目的で作られているのだ。
「今日はどういったご用件で」
 僕が何も言わずに靴を眺めていたためか、店主が少し苛立ったような声を出した。
「あ、今度結婚式に出るので、冠婚葬祭用の革靴がほしくて。このお店は友達が紹介してくれたんですけど」
 少し緊張を含む声で応える。店主はそんな僕の緊張に気づいたのか、少しだけ柔らかい感じの声で話を続けてくれた。
「もちろんそういった用途の靴も用意しております。ご親族の方の結婚式ですか?」
「いえ、大学のサークルの後輩です」
「それでしたら、あまりフォーマルなものでなくて良いですね。今仕事で使っている靴でも良いと思いますよ」
「革靴は一応持っているんですが、だいぶ昔に買ったものなので、ボロボロなんです。流石に結婚式にそれで出るのは恥ずかしくて」
「そうですか。それなら、仕事と兼用に使えるものが良いですね。今後結婚式にたくさん出席するご予定があれば、それ専用の靴を購入しても良いのですが。普段使いで仕事と同じ靴を履いていると靴もすぐダメになっていきますし。結婚式に出る予定は今後増えそうですか?」
 ここで僕は言葉に詰まる。結婚式に出る予定は増えるだろうか。年齢的にいえば、きっと増えていくのだろう。しかし、僕がそれに呼ばれるのかどうかは分からない。僕のことを覚えている知り合いというのはどれくらいいるのだろうか。覚えてくれたとしても、そもそも呼んでくれるほど深い付き合いのある知り合いはどれくらいいるのだろうか。
「分からないです」
 絞り出したような小さな声で応えるが、店主はそれについて、気にしていないようだった。
「分かりました。とりあえずベーシックな革靴にいたしましょう。仕事でも冠婚葬祭でも使えるような。あなたにピッタリの靴をご用意いたします」
「お願いします」
「では、靴のサイズの希望はございますか?」
「今持っている靴のサイズは26.5cmです。だけど、念のため測ってもらってもよろしいでしょうか」
 僕がこう応えると、店主は一瞬怪訝な顔をし、その後すぐに合点がいったような顔になる。
「ああ、私の聞き方が悪かったですね。あなたの足のサイズは見れば分かります。しかし、人間というのは刻一刻と体が変化していく生き物です。あなたの足の大きさも一秒前から随分と変わっています。それはあなた自身が変わっているのも原因ですが、この地球や宇宙も変化していっているため、その影響を受けているのです。だから、いつの時点の足のサイズの靴が欲しいかを仰って下さい。」
「い、今の足のサイズの靴で良いのですが」
 少し口ごもって応える。ここで僕は、『靴のサイズを測る時、店主が少しおかしなことを聞いてくるけど、正直にそのまま応えれば大丈夫だから』という渡辺の言葉を思い出していた。
「『今』というものは存在しません。『今』というのは過去と未来に挟まれた一瞬の幻想です。私は人の顔を見れば、ある時点の足のサイズがいくつだったか、すぐに分かります。あなたが10年前にどのくらいの足のサイズだったのか、10年後にどれくらいの足のサイズになるのか、それについては分かります。しかし、『今』のあなたの足のサイズは分かりません。『2017年7月15日の18時32分45秒の時点の足のサイズ』という風に仰っていただかないと。この時間でよろしいですか?」
 僕は店主の一気にしてきた話を聞いて、混乱のあまり少し頭痛がしてきた。『今』が存在しないだって? 一秒前の僕と一秒後の僕にそこまで違いが生じるのだろうか? そんなことを考えていたら、靴など買えないではないか。
「ちょっと言われている意味がよく分からないのですが、結婚式は一週間後なので、一週間後の7月22日13時00分00秒の足のサイズに合った靴をお願いします。12時から結婚式が始まるので、ちょうど真ん中の時間くらいにピッタリになってくれると助かります」
「かしこまりました」
 そう言って、店主はカウンターの後ろにある扉を開け、奥へと消えていった。おそらく奥に倉庫があるのだろう。僕は少し疲れを感じ、店の真ん中にあるソファに腰を下ろす。ソファは座り心地が非常によく、全体重をかけても優しく支えてくれるため、空をふわふわと浮かんでいるような気持ちになった。
 店の壁には時計はなく、携帯電話を取り出したが電池が切れていた。まだバッテリーに余裕があったはずだが。今が何時なのか、ここが一体どこなのかが全く分からない。青山という、普段縁のないオシャレタウンにいることは間違いないだろう。しかし、それを証明する術がない。店の中はしんとしていて完全な無音であった。天井にある蛍光灯からも一切音がしない。あと五分、このままここにいると、きっと気が狂ってしまうほどの静けさ。生物がみんな死んでしまった森の中にいるようだ。木の倒れる音だけが時々聞こえてくる。
 
「お待たせいたしました」
 ふと気づくと、店主が一つの箱を持ってソファのそばに立っていた。どれくらいの時間が経ったのか、僕にはもう何も分からなかった。
「黒のストレートチップの革靴です。フォーマルシーンでも、ビジネスシーンでも使えます。試しに履いてみて下さい」
 店主はそう言って、箱から一足の黒い革靴を取り出した。僕にはそれが、黒い烏に見えた。そして、そのままその烏がパッと飛んで行ってしまうところまでイメージができた。もちろんそれはただの錯覚であったが。
 店主に言われた通り、その革靴を試し履きしてみる。靴は僕の足にピッタリであった。しかし、僅かな、ほんの僅かな違和感を僕は覚えた。その靴があまりに足にフィットするがゆえに感じてしまう、それほど僅かな違和感であった。それは本当に僅かなものであったが、決定的なものでもあり、それを無視すると後で何か重大な間違いが生じるかもしれないと思わせるようなものであった。
「少し変な感じがするでしょう?」
「ええ、でも……」
「大丈夫です。一週間後の7月22日13時00分00秒にはあなたの足にピッタリと合うはずです。まるで履いていることを忘れてしまうほどに」
「でも、先ほど言っていたことが本当ならば、一週間のうちに僕の足は変化しますが、同時にこの靴も変化してしまうのではないですか?」
「はい、それはもちろんそうです。しかし、それも全て計算に入れて靴を見立てておりますので、心配なさる必要はございませんよ」
「そうですか」
 僕はもうこのままでいいかなと思った。店主が大丈夫と言っているのだから、きっと大丈夫だろう。心配したところで、過去は勝手に流れていくし、未来はほっといてもやってくるのだ。
「分かりました。では、この靴を下さい。おいくらですか?」
 店主が言ってきた値段は僕が想定したものよりもずっと高かったが、それでもオーダーメイドの靴を購入するよりはきっと安いであろう値段であった。店主に言わせれば、オーダーメイドの靴は、変化してしまう体を考慮していないため、全くの偽物ということになるが。
 会計をし、先ほどの鉄の扉を開けて店の外に出る。扉を閉めて廊下に立った後、僕は後ろを振り返り、もう一度この扉を開けてみたい誘惑に駆られた。しかし、その扉を開けた瞬間に、何か取り返しの付かないことが起きるという予感がして、何とかその誘惑を追い払う。そして、長い無機質な廊下を抜けて、エレベーターのボタンを押す。帰りも行きと同じく、地上17階まで行かなくてはならない。
 
 
 一週間後の結婚式は華やかで、自分には一生縁のなさそうな光景であった。僕はサークル関係者が集められたテーブルに座り、久しぶりに会う知り合いと話をしたり、沈黙をしたりした。僕のことを覚えている人間は、ほとんどいなかった。
 一週間前に買った革靴はピッタリでありながら、ずっと違和感が存在していた。朝家を出る時、会場までの道のり、席に座った後、そして結婚式が始まってからもずっと。しかし、その違和感は僕の中でだんだん自然なものとなっていった。きっかけは忘れてしまったが、いつの間に仲良くなった幼いころの友達のように。
 
「滝本君、久しぶりだね。私のこと覚えてる?」
 隣の女性に声をかけられる。その顔と、記憶にある過去の顔を一致させることに少し時間がかかったが、何とか名前を思い出すことができた。一応僕の同級生だった人だ。
「もちろん覚えてるよ。松尾さんだよね」
「おー、滝本君、サークルに全然顔出さないから、私のこと知らないと思ってた。まあ、私もほとんど出てなかったんだけど。今回の結婚式も『紗恵』に誘われて来たようなもんだし」
 『紗恵』というのは、サークルの中心的な人物だった、『日高』という名前の女性だ。渡辺の女性版といったらよいだろうか。松尾さんも、僕が渡辺に誘われた時と同じような感じで日高さんに誘われたのかもしれない。
「僕も渡辺から半ば強引に誘われたようなものだよ」
「やっぱりそうなんだ。滝本君、こういうの苦手そうだもんね。まあ、私もそうなんだけど。結婚式ってどうしてもどっか疲れちゃうよね」
「うん」
「でも、渡辺君か~。私はあんまり顔を出してなかったけど、懐かしいね、やっぱり。そういえばここだけの話なんだけど、渡辺くんと紗恵って学生時代に付き合ってたんだよ」
「そうなんだ、それは知らなかったな」
 松尾さんがそっと耳打ちをしてくる。司会の声が大きかったため、小声で話さなくても周りには聞こえなかったと思う。しかし、松尾さんの息が耳元にかかった時、何とも言えない官能的な気分になったのは事実だ。
「でも、卒業の前に別れちゃったんだけどね。その時は二人とも少しギクシャクしてたけど。今はもうすっかり大丈夫みたいだね」
 二人が付き合っていることは全然知らなかった。渡辺が学生時代に何人かの女性と付き合っていたということは知っていたが、サークルのメンバーと付き合っているとは思わなかった。
「でも、こうやって昔みたいにみんなで集まると楽しいね。大学を卒業して就職しちゃうと、みんな変わってしまうかなって思っていたけど、そんなこと全然ないし。こんな風に集まると、昔に戻れたみたいで嬉しい。こういう変わらないことの大切さってあるんだなあって、改めて思ったよ」
 
 それを言われた瞬間、あの靴屋の扉を開けた時のように、僕の頭の中で何かがカチッと繋がった。そしてその感覚は、次の瞬間には僕の頭の中から消え去ってしまった。僕は驚いて時計を見る。時刻は13時をちょうど過ぎたところだった。
「ちょっとごめん」
 そう言って僕は席を立ち、トイレへと向かった。全てがきっちりと噛み合った時のような言いようのない快感と、耐え難い気持ち悪さが僕を支配していた。ここにとどまってはいけない。僕は変わり続けないといけない。地球だってこの瞬間に変わり続けているのだから。
 トイレでうずくまり、胃の中のものを全部吐き出そうとする。しかし、先ほど口にしたコース料理はすでに胃の中から消え去ってしまい、何も吐き出すことができなかった。消化されるには早すぎる。僕の胃の中身はいったいどこに行ってしまったのだろうか。
 
 洗面台で顔を洗った後、鏡に映る自分の顔を見つめた。自分の顔をまじまじと見るのは、久しぶりのことだった。こんな顔をしていたのか。でも、鏡に映っている僕の顔も、今この瞬間の顔ではない。鏡に光が当たるまでの、ほんの一瞬前の顔だ。そして、それが目に入り、網膜に焼き付けられ、脳に達するまでの神経伝達にも、零コンマ数秒の時間が流れている。今現在この瞬間の僕というのはどこにも存在しておらず、そしてそれは永久に手にすることのできないものだ。
 
「『今』というものは存在しません。『今』というのは過去と未来に挟まれた一瞬の幻想です」
 
 店主が僕に語りかける。僕は思わず手で顔を覆って泣き出してしまった。こうしている間にも時間はどんどん過ぎ去っていく。地球も宇宙も、渡辺も日高さんも松尾さんも、そして僕が今履いているこの靴も変わり続けていた。僕だけが変わることができない。『今』という幻想から抜け出すことができない。
 誰かが呼びに来るまで僕はずっとそうしていた。誰でもいい。誰かに気づいてほしかった。今動き出せば、きっと誰かが気づいてくれるだろう。でも僕は、動くことができずにいた。