日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

また一年後にお会いしましょう

 askに「あと1年間の生命ってなったらどうしますか?」という質問があった。askって誰かが発した質問が、回答が出てもランダムにと飛ばされ続けているシステムっぽいと知って、これも私宛に来た質問ではないなと思ったし、とても眠かったので、適当に「手紙を書いて、旅行に行って、旅行しながら小説を書きます」とだけ回答した。
 
 しかし、実際のところ、あと一年間の命でやりたいことはなんだろうか。
 
 お世話になった人に手紙を書くことはやりたいし、旅行にも行きたい。小説もまだ頭の中のものがあるので、ちょっとでもいいから書いてしまいたい。短歌も今作っているやつは、もう少し推敲して形にしたい、と思う。
 
 でも、そのくらいだよなあ、というか圧倒的に時間が足りない。
 
 そう考えてしまうと、仕事というのは当然候補に挙がらないし、読書というのもやりたいことに挙がってこないのだなあと思う。インプットよりもアウトプットの方をしたくなる(一瞬「子供」という単語が頭に浮かんで、人間は誰でも残り時間を考えるとこういうことを考えてしまうのだと思ってしまい、少し落ち込んだ)。これは創作している人が誰でも考えてしまうことなのかもしれない。
 
 ジョブズの有名な言葉で、「毎朝、鏡の中の自分に問いかけてきた。『もしも今日が人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることをやりたいと思うだろうか?』と。NOと答える日が何日も続くようであれば、何かを変えなければならないということだ」 というのがあるけど、まさにその通りだと思う。ただ、今日が人生最後の日ならその通りだけど、人生最後の日じゃなかったらどうするの、って考えてしまうのは私が俗人だからだろう。穂村弘さんが仰っていた通り、どうしても「生きる」ことより「生きのびる」ことを考えてしまう。今日を最後の日だと思って、すごく充実した一日を送り、その結果死ななかったとしたら、「なんだよ、最後の日じゃないじゃん」と思い、むしろ死んでしまいたくなる気がする。逆説的で可笑しい。
 
 今死ねば、ある程度若くして死んでしまったということで、Facebook上の友人の心には残るかもしれない。私も小学校の友人が一人病気で亡くなっていて、高校の同級生と大学の友人が自殺している。彼らのことを時々思い出すけど、それはもしかしたら「若くして亡くなってしまったから」だけなのかもしれない(そんなことないと信じたいけど)。でも結局、彼らが一体何を考えていたのか思い馳せもしなかったし、何が好きで何が嫌いかもよく知らないし、彼らと一緒にいた頃ですら自分のことばかり考えていて、つくづく自己中心的な人間だなと思う。彼らのことを考えて感傷的になってしまうのも、全部自分のためであって、そして今でも私はそんな感じで人と接しているのではないかと。ああ、よくないことだ。
 だから、今私が死んだとしても、「若くして死んでしまった」以外の何かを残したいと思うし、それは創作している人全員が一度は考えることなのかもしれない。しかし、それと同時に人が「何を残したいのか」いうことにも耳を傾けていきたいな。
 
 なんて、この文章を考えている時間はどうなのだろう、と思いながら。また一年後に会いましょう。