日々のこと

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僕には尻尾が生えていないけれど(うたの日お題について1)

 Twitterで見たご意見。
 

 
 私は「レイプ」の回に提出した。短歌は2017年10月18日に始めて、それまでに自分で詠んだことも、人の作品を読んだこともない。完全な素人である。それを言い訳にするわけではないが、「レイプ」のお題を見た時に違和感を覚えつつも提出したのは、敢えて難しいお題に挑戦することに意味があるのかも、という初心者特有の恐れを知らない気持ち、もしくは驕りのようなものがあったのかもしれない。そのため、その言葉自体が持つ強い意味をきちんと考えていなかったという面があり、その強い部分をきちんと短歌という表現物に昇華できないで、ぞんざいに扱ってしまったことは反省すべきことだと思う。
 ただ、この「レイプ」がお題として適切かどうか、という話と、「自分の性別とは違う性別で詠む」がお題として適切かどうか、という話は少し別物な気がする。「レイプ」は恐らく多くの人(あるいは社会)から見て不適切なワードだが、「自分の性別とは違う性別で詠む」はもっと個人的な、アイデンティティな話だと思うからだ。「レイプ」がお題としてどうなのかは、別途またブログで意見を述べたい。今回は「自分の性別とは違う性別で詠む」について。
 
 一つ想像してみる。
 私は人間とは違う生物である。その生物は所謂知性があり、集団が集まって社会生活を営んでいる。その生物は、二種類に分類することができ、その二種類は目に見えて違う点が二つある。片方は尻尾があって手の指が六本だが、もう片方は尻尾がなくて指が五本ある。その二種類はそれ以外に知性や運動能力に大きな違いはない。ただ、その生物が子孫を残すためには、その二種類がお互いに生殖行為をする必要がある。同じ種類同士では子孫を残すことが出来ない。そして、生まれてくる子供はほとんどの場合、その二種類のいずれかに生まれてくる。
 私はたまたま、その二種類のどちらでもないものとして生まれたとする。例えば尻尾があるのに指が五本しかないとか、尻尾がないのに指が六本あるとか。私はその状態で大きくなっていく。自分はどちらの種類なのか分からないまま。私は文章を書くのが好きだ。特に自然についての文章を書くのが好きで、そういったサークルに所属しているとする。ある日、サークル内で、あるテーマの文章を書くことになった。そのテーマが「自分の違う種類として文章を書く」。そのテーマを見た時私は何を思うのだろう。違う種類と言っても私はどちらなのだろうか。私とは一体何なのか。
 
 書いてみたけど、これは物事を大分単純化しすぎて乱暴な想像だ。でも、この想像をした時、何とも言えない寂しさを感じると同時に、気づかないうちに自分が如何に社会から守られているかを感じた。
 実際のジェンダーについては、単純に身体的な特徴によって決められるものでもないだろう。身体的にどちらとも言えないということもあるし、社会的にはどう振る舞っているのか、性自認性的指向がどうなっているのかによっても変わってくる。分類はどんどん複雑化していき、「私の性別は私」としか言えなくなってくる。そうなると、「自分の性別とは違う性別」とは果たして何なのだろうか、という疑問にぶち当たり、このお題で短歌を詠むことはできなってくる。「違う性別」と言ってもそれは種類が多すぎてしまうからだ。
 
 私自身は幸いなことに身体的性別や、性自認や性指向は一種類に寄っているが、社会的性別は少しブレていて、所謂「男らしさ」「女らしさ」というものに苛ついてしまうこともある。ただ、こうやって人間の性別を二種類に分けることで、社会の運営や、おそらく子孫を残すということが便利になるのだと思うし、さっき述べたように、私自身も守られているのだろう。
 「私は私」と言えたらどんなに良いだろうと思う。しかし、トイレやお風呂はどのように分けるのか、などについて私は明確な主張を持っていない。現状のままの方が便利だとすら感じている。小学校の時「差別と区別は違う」と習った。例えば肌の色で行う仕事を分けるのは差別だが、トイレが男女に別れているのは区別だと。でも、物事はそんな単純ではないかもしれない。もしかしたら、トイレが完全一緒になっている社会が理想的なのかもしれない。しかし、私はそうした社会に強い拒否反応を覚えてしまって、それは今の社会に自分が守られているという認識があるからだろう。
 だから、この考えも、結局は社会から守られている者から、安全圏にいる立場からの意見になってしまう。そこから一歩出ることに酷く臆病になってしまう。しかし、自分を卑下しても仕方がない。
 
 今回なぜこのような文章を書いたかというと、「レイプ」というお題が出た時に自分は違和感を抱いたが、同じように違和感を覚えた人がいたこと、その人が「自分の性別とは違う性別で詠む」というお題に疑問を感じていて、それはなぜだろうと自分なりに考えたかったからだ。ただ、言い訳になってしまうけど、「ジェンダー論」について詳しく知っているわけではないし、下手に手を出したくないという思いもある。
 何か作品を作る以上、それが知らず知らずに誰かを傷つけてしまう可能性がある。それを気にしていたら(批判を気にしていたら)、作品なんて作れないという意見にもうなずけるけど、その傷ついている人はなぜ傷ついたのか、何に対して怒っているのかというのは自分の中で考えていきたい。そうしないと独りよがりな作品になってしまうと思う。
 
 「性」については他にも色々思うところはあるけど、一度ここで筆を置きます。