日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

死にたくなる時

 あっ、死んでしまいたいと思う時がある。誰にだってある。私にだってある。猫にだってあるかもしれない。
 私にとってそれは、財布にお金が入っていなくて、銀行でお金を下ろさなきゃな、と思った時だ。
 それは、料理を作らなきゃでも、ご飯を食べなきゃでも、掃除をしなきゃでも、仕事をしなきゃでも、そろそろ起きなくちゃでも、もう寝なきゃでも、彼氏にLINEの返信をしなきゃでもない。
 その死にたさは、仕事で嫌なことがあった時や、幸福なセックスをした時とは違う死にたさだ。もう死んでしまいたいという絶望でも、もう死んでもいいやという幸福でもない。
 あるいは交通量の多い交差点、ホームドアのない地下鉄のプラットホーム、ビルの屋上、そういった場所に立った時に感じられる、吸い込まれるような死にたさとも違う。ただ、銀行でお金を下ろさなきゃなと思った瞬間、あっ私に今生じている感情の中で、一番強いものは「死んでしまいたい」だ、ということに気がつく、そんな感覚だ。
 
 そう考えると、私の人生においてプライオリティが高いものはお金なのだろうか。食事やセックスではなく。死にたいと思うほどに銀行口座の残高から数字が減ることを嫌がっているのだろうか。そうではないと思う。そうではない、そう信じたい。
 確かに一回の食事やセックスを抜いたところで死ぬことはない。反面、お金は一度だけ支払いを猶予してもらうということは難しい。不可能なことではないが、それを行うことは私の矜持というものが許してくれない。それは一回の食事を抜くことよりも、ずっと厳しい選択だ。例えばお金を持ってないのに、レストランに入ってご飯を食べることは、誰だって普通はしないだろう。食べてしまった後に、お金は今度持ってくるので許してくださいと頼むわけにもいかない。私が言っているのはそういう話だ。お金がないのであれば、初めからご飯を食べなければいいのだ。お金がないのであれば、ご飯を食べてはいけないのだ。生きていてはいけないのだ。
 そう、私はお金を下ろし、お金を払う。私がセコセコと働いた結果として得られたお給料が、会社から私の銀行口座に振り込まれ、それを私は任意のタイミングで(なるべく手数料がかからない時間帯に)下ろすことができる。その下ろしたお金で、私は支払いを行う。せっかく得たお金を、いとも簡単に手放していく。仕方がない。生きていくために、それは必要な行為だ。生活費を払う。食費を払う。家賃を払う。光熱費を、携帯の料金を、インターネットの料金も。生活用品も買うし、病気になれば医者にもかかる。税金だって真面目に払う。所得税も住民税も年金も払う。月末にはカードの支払が待っている。私はリボ払いも分割払いも大嫌いなので、必ずその月に使用した分は全額一括で月末に支払うようにする。自慢ではないが、私はこれまでに借金というものをしたことがない。せいぜい大学時代の奨学金と、海外旅行の際にキャッシングをするくらいだ。そのキャッシングも翌月末には全て返してしまう。
 私は至って真面目に、私が生きていくために必要な対価を支払い続ける。一度でも支払いを止めてしまうとどうなるか。一度くらいなら許されるかもしれない。電気やガスは支払いが滞るとすぐに止められてしまうらしいが、水道は比較的長期の滞納が可能であるらしい。しかし、一度でも支払いを滞らせると、私の信用というものが地に落ちてしまう。それに加えて、下手するとかなり激しい取り立てがやってくるかもしれない。お金を払え、お金を払わないやつは生きている価値がない、といった具合に。
 
 きっと私は、お金を払うことで生きる許可をもらっている。お金を払って、どうか私が生きていることを許してくださいと、頭を下げてありとあらゆるものに懇願している。お金を払わなくなった瞬間、私には生きている価値がなくなり、すぐに死んでしまっても良い存在として扱われる。お金、お金、それが社会だ。
 私は恐れているのだろう。お金を失ってしまうことを。お金を失った結果、この社会から消滅してしまい、誰からも思い出されなくなることを。だから、私はお金を払い続ける。ありとあらゆるものに。
 
 お金を下ろすことを考える時、恐らくまず初めに私に生じる感情は「生きたさ」だ。お金を下ろし、お金を払うことを考えるとき、強く「生きたい」と感じている。しかし、それがあまりに強いため、その反動で「死んでしまいたい」という感情が出てきてしまう。強い酸性の液体を中和するためには、強いアルカリ性の液体が必要なように。
 それは、今のところは危ういながらも何とかバランスをとっている。「死にたさ」よりも当初の目的である「生きたさ」が勝っている。しかし、そのバランスがある日突然崩れてしまったらどうなるだろうか。私の中で「生きたさ」よりも「死にたさ」が強くなってしまったらどうなるだろうか。ありとあらゆる支払いを止めてしまうのだろうか。下ろしたお金を全て燃やしてしまうのだろうか。そもそもお金を下ろすということを止めてしまうのだろうか。
 その時はきっと、私が社会から脱落した時だ。私は社会から生きる権利を剥奪される。義務を果たさないものは生きる権利がないと。
 
 でも、本当は私だって知っている。頭の悪い私だって知っている。誰だって知っている。猫なんてきっと生まれた時から知っている。その「生きたさ」は紛い物だと。社会から植え付けられた偽物の「生きたさ」だと。社会が私からお金を吸い取るために、私の脳内に作り出した「お金を払わないと死んでしまう」という幻想だと。
 いつか私の中の「死にたさ」が勝ってしまうかもしれない。でも、それでいい。その「死にたさ」は本当の意味では「生きたさ」だ。私自身が持っている、自らの意志による「生きたい」という感情なのだ。