日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

(2018年11月21日)寺山修司展@神奈川近代文学館

 
 美術館は人が多くて自分のペースで見られないし、情報量が多くて全部受け入れようとすると疲れるので、あまり得意ではないのだけれど、今日は文学だったしそこまで展示も多くなかったので、非常に良かった。絵よりも想像の余地があるというか。寺山修司についてもある程度知っていたからかも。
 

 
メモ書き
 
寺山のやろうとしたことについて
 
『迷路と死海
「虚構と日常と現実とのあいだの国境線を取り除く」ということか。
それは構築された世界、システムの破壊。
それを成し遂げたのが、コラージュ作品、切り貼り、模倣、実験映画。
 
また、過去の改変は可能と考えた。虚構。
未来は不変である。
 
例えば……
「街中を舞台にする」
「舞台と客席の区別をなくす」
「シナリオや台詞をトランプで決める」
「客席から舞台が完全に見えず、何をやっているのかが分からない」
それはフラッシュモブのような枠の中の話ではなく、もっと根本的な境界線の破壊だ。
 
「夢は夢の中では現実であるから、ボードレールは眠りを恐れた」
という言葉が脚本に残されている。
 
『地獄篇』
「死んだ人はみんなことばになるのだ。その約束の意味を究めよう。死んだ人はまさしくことばになるのだ。ことばに、ことばに、ことばに、ことばに、ことばに、ことばに、ことばに!」
 
 
 
「ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかって
完全な死体となるのである
 
そのときには
 
できるだけ新しい靴下をはいていることにしよう
零を発見した
古代インドのことでも思いうかべて
 
「完全な」ものなど存在しないのさ」
 

 
 もう新しいことは言えないか分からないが、私が感じたことは既存の評論の範疇だろう。
 短歌という点から見ると、寺山は虚構を内包した新たな私性を作り出したと言えるだろう。それは既存のものを破壊するだけの力を持っていたが、同時に既存のシステムからの攻撃を受ける。だが、そのような話は別として、寺山修司は30歳のころに歌のわかれを宣言する(実際には晩年に再度作歌する)。反論はあると思うが、短詩というジャンルが、一瞬の青春のうちに燃え上がる情熱を表現するには大層相性が良いが、歳を経るに連れて、短詩にその情熱を託し続けることが困難になる、という意見に対して私は賛同したい。だが、実際に寺山が短歌を離れたのは、虚構の私を使ってですら、短歌に自分を託し続けることができなかったのだと思われる。謂わば、短歌という詩の形態に限界を感じたのだと邪推するが、ここでは深掘りはしない。
 短歌と虚構の関係は、完全に解決されたとはまだ思えず、いつまでも燻り続ける問題に見える。やはり、短詩という形態が、虚構を支え続けることは難しいのだろう。実際には可能かもしれないが、一個人がそこまで短詩に自分自身を変換することが可能なのか、それを行った結果きちんと元の世界に帰ってこられるのか、ということが恐怖にすら感じられ、それはすでに現実と虚構の境界を完全に破壊する作業に他ならないと思われる。寺山は演劇という形態でそれを積極的に行い、その試みはある程度成功したようだが、しかしながら虚構は現実があるから虚構なのであり、境界が完全に破壊されつくされた場合、その世界に現実も虚構もなくなってしまう。そのようなジレンマ、自己矛盾が存在する以上、結局境界の完全破壊は不可能なのかもしれないと、少し悲観的、冷笑的に感じてしまう、今は。
 それはそれとして、寺山が短歌の中で実際には生きている母親を殺すという作業を行ったことは、自身の少年時代に母親と離れて暮らした生活が無関係ではないだろう。先程の話と重複するが、寺山はやる時はとことんやる男だったのだと感じた。母親を殺すために、おそらく自分の世界ととことん追い詰めたのだと感じられる。そして、それをする必要性が彼の中におそらくあったのに違いない。寺山は短歌というジャンル以外に、演劇でも実験的な作品を数多く遺し、そしてその作品群には常に「虚構と日常と現実とのあいだの国境線を取り除く」というテーマがあったように見える。
 
 私は恥ずかしながら、まだまだ知らない作品が多いので、これを機に読んでみたい。この感想文も単なる感想文である。
 思えば、寺山修司はカッコいいのだ。作品と生き様の全てが。ファンには怒られるかもしれないが、尾崎豊に似たものを感じる。ある種の情熱を持った若者にとって、強烈なシンパシーを感ざるをえなくて、時代の寵児に、若者のアイコンにしか見えなくなるのだろう。憧れをもち、彼らの生き方を真似したくなってしまう、そんな魅力に溢れている。今日、寺山修司展に行けて、寺山修司をまた一つ知れて本当に良かったと思う。

RAIN TRAIN

とある日に
とある雨の中
とある人が
とある電車で
とある海を目指し
とある夕陽を見た
 
これは
とある生涯
とある生活
とある生命
とある死
 
とある人と
友だちになった
とある人は
とある人と
とある恋に落ち
とある恋人となった
とある人の
とある恋人は
とある悩みがあった
 
とてつもない
輝きがある
とほうもない
運命がある
どうしようもない
絶望と
嫉妬と
どうしたって
かなわないという
思い
 
とある人の
とある話
とある雨が
とめどなく
流れるのを
とある電車の窓から
眺めている
 
とある噂
 
とある雨も
いつかは止むだろう
とある

今さら

 
今さら
母はそういう表情をする
 
今年の夏は水不足になりそうです
7月にキャスターが言っていた
僕らはボルビックを飲みながら
そのニュースを聞いていた
 
 
 
今さら
クラスメイトはそういう表情をする
 
世界的に食糧が不足しています
9月に先生が言っていた
僕らは牛丼を食べながら
その授業を聞いていた
 
 
 
今さら
政府はそういう表情をする
 
このままだと日本人はいなくなります
12月に学者が言っていた
僕らはセックスをしながら
その講演を聞いていた
 
 
 
今さら
彼女はそういう表情をする
 
このままだと感情はなくなります
2月にドラマの中の彼が言っていた
彼女は無感情に
その発言を聞いていた
 
 
 
今さら
君はそういう表情をする
 
このままだとさよならだと
4月に君が言うのを
僕は泣きながら聞いていた
 
 
 
5月
神様に表情はなかった
 
 
文章が書けなくなって
随分と経ちます
雨とか人とか愛とか
ついつい語りたくなってしまいます
今さらですが
春は嵐で
夏は後悔が根を張ったようで
ペンギンは秋の季語みたいで
冬の歌声が懐かしい
そして、あなたの作る物語が
好きでした

名前を知らない鳥

 つらつら。雑記。
 
A. 写真
 
 遺影だけを集めた写真集ってあるのかなと思った。あとは死に顔だけとか。死体の写真を撮ること自体が疎まれるからなあ。
 
 大学の同級生が亡くなった時、まあ自殺だったのだけれど、その人のお父さんが火葬場でその人の死に顔の写真を撮っていて、係の人に嗜まれていたのをよく覚えている。周りの人にも配慮してほしいと。そのお父さんは、言い返していたけど。
 昔は写真を撮ると魂が抜けると考えられていたようだけど、死んだ人の顔写真を撮った場合、魂は抜けてしまうのだろうか。もう魂は存在しないなら、問題ないのだろうか。
 もし抜けるとしたら、魂はどこから来て、どこへ行くのだろうか。
 永遠に写真に閉じ込められてしまうのだろうか。
 
  なんて。
 
今ここでシャッター切れば魂は何処(いずこ)へ君の死に顔の前
 
魂よ戻れ あなたの左前銀塩写真で撮ったのならば
 
 
B. 技術
 
 短……歌、副詞と(特に)形容詞はなるべく使いたくない、名詞と動詞は三つに抑える、とか考え出すと技術と語彙力がないゆえに大体似たようなものというか、穴埋め問題のように作ってしまっている気持ちになる。プログラミングで作っているのと変わらない。キャッチーさを作ろうと固有名詞を入れたり。でもそれでポエジーが発生するかは人それぞれで、分かりづらいという可能性もある。一般名詞も使い方が下手なのか、J-POPと呼ばれる。なんだか広告のキャッチコピーみたいになってしまうし。具体的だと説明的と言われたり、抽象的だと分かりづらいと言われたり。うおー。強度というか、強さというか、パワーが目に見えたら良いのになあ。見えている人には見えているのだろうか。
 そういえば、昨今は3DだIMAXだ4DXだってあるけど、かまいたちの夜みたいな文字だけがひたすら流れる一次元の映画ってあるのかなと思って、調べたらそういうコンセプトの映画はあった。
 
 てか、アンデルセンが『絵のない絵本』って本を出している(読んだことはない)。あと、ノーマン・マクラレンという人もそういう前衛的な映画を作ったらしい。詩も全部空白にして、『4分33秒』です、みたいにしてもありだろう(知らない)。
 強さを考えた時、単純に文字を並べただけだと、平板である。強く構造的にするには? 立体的にするには? どう技術を使うか?  技術。句跨り・破調(字余り・字足らず)・句読点・空白・記号。絵や写真や動画や音楽と組み合わせたり、小説の途中に入れたり。意味のない文字列や、文字化け、口語・文語破調。二物衝撃や韻の踏み方、喩。個人的には喩の使い方が上手いと、景色が広がる感じがする。下手に使うと装飾過多の、生クリームベタベタ。それはそれで好きだけど。言葉自体に力がなくとも、技術の組み合わせ次第。ただただ読むだけではただごと歌。景色の切り取り方。スナップショットのような。何はともあれ、色々やりたいし、自分のスタイルを確立させたい。言葉の力を借りながら。
 思いつくままに書いている。もう少し勉強します。
 
 
C. 成熟
 
 国や民族、集団というものが、成熟するのか。人間は生まれた時は真っ白な状態で、歳とともに成熟していくと考えられているが、集団は? 
集団は人間の集合体と考えれば、構成する人間がどんどん変わってしまう以上、いつまで経っても成熟はしない気がするけど、集団として団結して思想が受け継がれていけば成熟していくのだろうか。
 自殺が教義の宗教というものがあったとして、それは最終目標が自殺である以上教義は残らないのだろうか、なんて考えてもう俺はダメだ。
 
 
D. やれること
 
 ひどい状態になると、何もできなくなって、爪を切るのが億劫になるところらへんが危険だ。その前に髪を切ることが億劫になるけれど。それで食事を摂ったり、排泄したり、シャワーを浴びたり、歯を磨いたり、寝たりということが億劫になる。その結末が見えているので、ひとまず爪を切ることはどんなに億劫になってもやっていこうと思っている。
 
 
E. 最適化
 
 最適化の話。
 意識高いことを考えていると、生産性に直結しない作業は全て無駄という感情に襲われてしまい、Twitterやゲームはもちろん、仕事とは関係ない本を読んだり、詩作をしたりなんてことも、生産性がないということになるだろう。働いてお金を稼ぐことと、子供を作ること、最低限の栄養と睡眠以外は全て無駄だと思うようになり、人生の最適化が発生する。本当にクソだと思うし、間違いなく幸福度が低い。ここまでくれば人生自体が無駄なのだから、今すぐ死んでしまうのが正解だ。やれやれ。
 
 
 というわけで、家に帰ったら爪を切って、睡眠をとる。少し読書もする。

プライド

 
 このツイート
 

 

 ツイ消しされたときのために念のため画像でも。

 

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 なんか分からんけど、プライドの話は別にしてもこの話が面白いなあと思ってしまって。築地市場のおじさんにとっては、イワシはお金を払って見るものではないけれど、姪っ子にとってはそうではない。二人の間には多分下みたいな違いがあって、
 
おじさんにとってのイワシ
・食べるもの
・売ることでお金をもらうもの
・市場でいくらでも見られる
・死んでいる
 
姪っ子にとってのイワシ
・見るもの
・見ることでお金を払うもの
・水族館にまでわざわざ行って見る
・生きている
 
 対象にしているのは同じイワシなのに、抱く感情は全く別なものになる。何事も見る視点を変えることによって全く別な一面が見えてくる、というとありきたりな結論になってしまうけれど、なんかイワシっていうのが可笑しかった。かたやイワシを食べ物として見ていて、かたやイワシを鑑賞動物として見ているのだ。
 自分も結構動物園とか水族館が好きだからたまに行くのだけれど、水族館行くとお腹が空いてくるって人もよくいて、可笑しいと感じる。魚を食べる文化がある日本人ならではなんだろうなと思う。動物園とか水族館に行くのは、教育的なものとか癒やされに行くとか、デートとか感受性を刺激させに行くとか色々あるのだろうけど、わざわざお金を払って猿や魚を見るのは人によっては奇異に感じるのかもしれない。もちろん、魚そのものを見るだけではなく、その空間に行くことで、海の世界や陸に上がってきた自分の遠い祖先などに思いを馳せたりするのだけれど。

二度寝と母

 二度寝
 
 二度寝は至福の時と言われているが、眠りが浅いためか、夢を見ることが多い。ほんの数十分に凝縮された希望。あるいは絶望。
 祖父の夢を見た。実際の祖父は一昨年に亡くなっている。病院。病院だけど、部屋が広かった。公民館のような。そこで、もうボケてしまった祖父が椅子に座っていて、その周りを家族が囲んでいた。家族はみんな泣いていた。私も泣いていた。明日にも祖父が死んでしまうということが、みんな分かっていたからだ。しかし、本当のところ、私の母親は泣いていなかった。泣いているふりをしていただけだ。その証拠に、少し経つと母親は泣き止み、そら恐ろしい目で祖父を睨み始めた。父方の祖父だったので、母親にとっては血も繋がってい義理の父であった。なぜ母親がそんな目で祖父を見ていたのか、何となく推察はできるけど、本当の理由は知らない。それ以前にこの母親は夢の母親であり、実際の母親ではないのだ。なので、実際の母親が祖父を恨んでおり、睨みつけていたというわけではない。ここは私の夢の中だ。となると、この母親は私自身なのだろうか。
 もうボケてしまった祖父、とは言ったが、実は祖父はボケていなかった。ボケたふりをしていた。その目には理性が宿っており、イヤホンを耳につけて何かを聞いていた。
 病室を移ろうという話になり、私は祖父の椅子を持ち上げた。とても軽い。祖父の身体を通して、祖父がイヤホンで聞いていたものが私の耳にも聞こえてくる。よく分からない落語だった。祖父は落語を聞く趣味があったのだろうか。分からない。祖父が私にだけに聞こえる声で何かを言う。それも何を言っているのか分からなかった。きっと大事なことだったのだと思う。しかし、それを聞き取ることができなかった。とても悲しい気持ちになり、涙が止め処なく溢れ出た。祖父が死んでしまうということが悲しくて堪らなかった。
 
 目を覚ました時、汗をびっしょりとかいていた。夢の中ではあんなに涙を流していたのに、目覚めた時は一滴も涙を流していなかった。これも嘘泣きと言えるだろうか。現実の表情は死んでいるのに、心の中ではわんわん泣いている。そんなことを誰かに言ったとして、信じてもらえるだろうか。
 
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 ここから違う話(書いているうちに徒然草になった)。
 
 秋。散歩日和。イチョウの並木道を娘と歩く。
 ふいに娘が私に「お母さんはどこから来たの?」と尋ねる。
「お母さんは、お母さんのお母さんから生まれてきたんだよ。あなたがお母さんから生まれてきたように」
 そう答えるが、娘は私の母を知らない。私の母は私が幼い時に亡くなったので、娘が私の母、娘にとっての祖母を見るのは不可能なのだ。というより、私自身も母のことを良く覚えていない。
 そのため、娘は私の回答がよく分かっていないようだった。自分を生み出した存在は目の前にいる。しかし、目の前の人を生み出した存在はどこにいるのだろうか。そしてそのさらに上は。際限なく世代を上り続けると、一番最初に現れるのは誰なのだろうか。その人は、どうやって生まれてきのだろうか。ある日突然この世界に出現したのだろうか。
 娘が私を見る目を見ていると、私自身がそんな存在であるような気がしてきた。私は私の母を知らない。私を生み出した存在を知らない。その事実は自己の存在理由を揺るがすのに十分すぎるほどの威力を持っており、昔はよく悩まされたことを思い出した。
「お母さん?」
 娘が心配そうに私に声をかける。
「大丈夫よ」
 慌てて娘に心配をかけさせないように答える。この世界に生まれてきたことも、生きる理由も、いくらでもあと付けはできる。そもそもそんな理由なんて、用意されていないのかもしれない。
 並木道が終わる。娘が私の手を強く握ってくる。私も少し強めに握り返す。もし娘が、自分の子供を産む選択をする日が来るのであれば、その日までは生きていこう、そう思った。

物語は終わる

 体調が悪い。
 例えば。例えば、なんだろう。
 例えば、で話し始めると、近所のお寺のお坊さんみたいだ。昔はそういう人がいて(今もいるかもしれないが)、法事とか葬式の時とかにやってきてお経を唱えてくれる。うちは檀家ではなかったとは思うのだけれど、そういう時は決まったお坊さんが来てくれた。それで、お経を唱え終わったあとに、色々話をしてくれる。家族の大切さとか、悪いことをしたらどんな罰を受けるかとか、四十九日の意味とか、そういう所謂ありがたい話だ。例えば昔こんな家族がいて、例えば盗みをすると巡り巡って。田舎のおばあちゃんなんかもたとえ話が好きそうだ。生憎実家は二世帯住宅で父方の祖父母と同居していたし、母方の祖父母も同じ市内に住んでいたから、田舎という概念が私にはないのだが。
 
 ビジネスでもたとえ話が上手いと良いみたいな風潮があるような(知らない)。「例えば」という話や、「もし」という仮定の話をよく聞く(知らない)。結局言語コミュニケーションだから、分かりやすいことが重宝されるのだろう。宗教もそこに行き着く。ビジネスにおいて必要なのはツールとしての言葉の利便性であって、ポエジーではない。
 詩作においてはどうかなと思うけど、以前夕焼けの色を「琥珀色」と喩えたが、それが上手いとも思えないし、結局新たな枠を作ってしまっただけではないのかと思う。言葉を磨けば磨くほど、感動を失ってしまってはいないだろうか(知らない)。ポエジーを求めて、上手い言い換え言葉を求めるが、それは正しいのだろうか。上手いこと言いますね、というのが蔓延してしまう。しかし、逆説的に感動ってどこから生まれてくるの? 言語コミュニケーションの賜物じゃないの? と問われると、はいそうですねと答える。よく物を知らないので。
 
 各国のエンゲル係数を見ると楽しい。日本は25%超えていて、アメリカは20%以下だ(2008年)。韓国は30%超えている。みんな100%超えてほしい。エンゲル係数120%。借金をしてまで食に命をかける人々。
 
 
 美味しいものを食べるのは、死ぬ時のためだ、というのを見た。曰く、死ぬ時に美味しいものの記憶を思い出せば、「ああ良い人生だったな」と思えるだろうと。そうなのかな。今かなり体調が悪いので、死ぬ寸前に考えることを心配をするということ自体が、あまり精神的に宜しくないと思うのだけれど、何事にも備えが必要なのかもしれない。もしかしたら、死んだあとも思考は持続するのかもしれない。それは、少し恐怖だ。
 死ぬことは物語で、そこには感動が存在している。人間は絶対に死んでしまうから。もし人間が死なないなら、死んだあとも思考が存在するのであれば、ここまで物語は生まれなかっただろう。
 私は、体調が悪い時は、ほっといてもいずれ死ぬし、くらいの気持ちで、自ら命を絶とうとは思わないのだけれど、それは体調が悪い時でもなんとか生きていられる環境があるおかげで、幸せなのだろう。でも、もっと突発的なものが来たら分からない。ただ、「17歳のカルテ」を読んだ時は、「自殺は完全犯罪だから完璧な計画が必要」という記述があった気がするが、どっちだ。
 
尊厳が無くとも飯が食えれば人は生きられる
飯が無くとも尊厳があれば人は耐えられる
だが両方なくなるともはやどうでもよくなる
何にでも頼る
 

 

 単純に寂しいのである。寂しいから、詩を作るのである。物語を書くのである。お互いを100%理解し合うということが不可能と知りつつも、100%理解するという幻想を追い求めることをやめられないのである。「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人で」、人が恋しいという気持ちを抑えられないのである。