日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

ない

私には
体がない
心がない
顔がない
影がない
名前がない
 
お金がない
住むところがない
職がない
服がない
寝る場所もない
 
痛みがない
快楽がない
悲しみがない
喜びがない
怒りがない
 
歌がない
楽器がない
言葉がない
思考がない
 
私には
故郷がない
 
私にあるのは
あの日の雪の道
残された足跡
糸杉の並ぶ
墓場の道を歩いた
空は暗く
星がよく見えた
その糸杉の
高い糸杉の
いずれ私が吊るされる
十字架の材料となる
糸杉の並ぶ道を
足跡を残しながら
ゆっくりと歩いた

自分を知る

 自分を知る、というのが存外難しい。無知の知。吾唯足るを知る。
 今まで見てきたことや聞いてきたことが全てではないけれど、それらは自分の中の全てではある。食べたことのない食べ物、読んだことのない本、聞いたことのない音楽、行ったことのない場所、出会ったことのない人、その中に一番好きなものや、嫌いなものがある可能性はあるが、全てを知ることはできない。いやむしろ、全てを知っても結局自分自身のことは分からないのでは、とすら思ってしまう。
 それで学生時代の休みを利用して自分探しの旅に出たり、就活の時に自己分析をしたり、性格診断、血液型占い、今日の運勢、色々なものに手を出して僕らは自分をカテゴライズしていく。でも、本当の自分なんてどこかに本当にあるのだろうか。年収や、年齢、体重や身長や出身地、学歴やフルマラソンのタイムや研究したことや職歴、星座占いや動物占い、それが僕の全てなのだろうか。
 僕は古い人間で、頑固で偏屈で単純で、昔もらった手紙を大事にとってあるし、好きな食べ物は一週間くらいなら毎日食べても飽きないだろうし、初めて食べたローソンの肉まんの味に感動して、今でもコンビニの肉まんの中で一番好きなのはローソンのだし、チキンはファミマのものが一番好きだ。四国を旅行している時に河原で見た月食が忘れられないし、その感動を共有したくて、また同じように何時間も電話をしてしまうだろう。四国旅行は初めてした一人旅だったから、四国は結構好きな地域だ。また旅をしたいと思う。陽だまりで微睡む野良猫を見るのが好きだし、彼らが心地よくなる場所を知っていることがとても羨ましい。何でもないことや、どうでもいいことを、普段は忘れているくせに、ふとした瞬間に思い出してしまって、とても嬉しくなってしまう。昔はトマトが嫌いだったけど、今では食べられるようになった。梅干しはまだ苦手だけと、食べようと思えば食べられる。円周率は50桁まで覚えたし、カラマーゾフの兄弟も新訳で読んだ。いくつか覚えた星座の名前や、それにまつわる神話は忘れてしまったけど、小さい頃に夢中になって読んだという記憶は残っている。好きなものや嫌いなもの、それを全部ノートに書き出して、多分それは僕ではないけれど、僕が知りたい僕は、あなたに知ってほしい僕はそういう僕なんだと思う。
 過去を懐かしむようになった。歳をとった証拠だろう。捨てるということも、よく考える。自分が持てる物の大きさも何となく分かるようになった。でも、今日は昨日よりも良い日で、明日はもっと良い日だろう。それを願っている。
 
 刺さった槍は、きっと今も揺れている。
 

ベルリン・天使の詩」 わらべうた 原詞 ペーター・ハントケ

 

第1章

子供は子供だった頃

腕をブラブラさせ

小川は川になれ 川は河になれ

水たまりは海になれ と思った

子供は子供だった頃

自分が子供とは知らず

すべてに魂があり 魂はひとつと思った

子供は子供だった頃

なにも考えず 癖もなにもなく

あぐらをかいたり とびはねたり

小さな頭に 大きなつむじ(```)

カメラを向けても 知らぬ顔


第2章

子供は子供だった頃

いつも不思議だった

なぜ 僕は僕で 君でない?

なぜ 僕はここにいて そこにいない?

時の始まりは いつ?

宇宙の果ては どこ?

この世で生きるのは ただの夢

見るもの 聞くもの 嗅ぐものは

この世の前の世の幻

悪があるって ほんと?

いったい どんなだった

僕が僕になる前は?

僕が僕でなくなった後

いったい僕は 何になる?


第3章

子供は子供だった頃

ほうれん草や豆やライスが苦手だった

カリフラワーも

今は平気で食べる

どんどん食べる

子供は子供だった頃

一度は他所(よそ)の家で目覚めた

今は いつもだ

昔は沢山の人が美しく見えた

今はそう見えたら僥倖

昔は はっきりと

天国が見えた

今はぼんやりと予感するだけ

昔は虚無におびえる

子供は子供だった頃

遊びに熱中した

あの熱中はは今は

自分の仕事に 追われる時だけ


第4章

子供は子供だった頃

リンゴとパンを 食べてればよかった

今だってそうだ

子供は子供だった頃

ブルーベリーが いっぱい降ってきた

今だってそう

胡桃を食べて 舌を荒らした

それも今も同じ

山に登る度に もっと高い山に憧れ

町に行く度に もっと大きな町に憧れた

今だってそうだ

木に登り サクランボを摘んで

得意になったのも 今も同じ

やたらと人見知りをした

今も人見知り

初雪が待ち遠しかった

今だってそう

子供は子供だった頃

樹をめがけて 槍投げをした

ささった槍は 今も揺れてる

 

「ベルリン・天使の詩」 わらべうた 原詞 ペーター・ハントケ

 

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悪夢

 変な夢。
 前後の文脈は忘れたが、幼女に転生した痴女にキスをされ、「口では立派なことを言っていても、こうやって小さい女の子にキスされておっ勃てるんだ」と言われて、すごく嫌な気持ちになる。別におっ勃ててはいなかったのだけれど。どっちかというとただ単純に戸惑っていた。
 こういうシチュエーションのエロ漫画を昔読んだような気もする(相手は幼女ではなく、S気のある若い女の人だった)。これが本心なのだろうか。自分がロリコンかどうかと問われると、ロリコンではないと思う。ただ、それは自己申告だと何とも言えないだろう。ロリコン脳科学的には病気と言えると聞いたこともある。自分の脳を精密検査すれば何かが出てくるのかもしれない。何も出てこないかもしれない。
 
 でも、ここでショックを受けたのは、自分がロリコンかもということよりも、「口では立派なことを言っていても」の部分だ。TwitterのTLで二人の人が別のタイミングで「不幸ごっこではないのか。本当は君は悲しんでいたり傷ついてはいないのではないのか」という趣旨の発言をしていて(私に向けた発言ではない)、うーん、と唸ってしまった。不幸でなければ詩や小説を書いてはいけないかと言うとそうではないと思うし(みうらじゅんの「アイデン&ティティ」にそんなシーンがある)、作品の善し悪しは不幸のランキング付けではないとは思うのだけれど、動機として、自分の身の上を語ることをミッションとするというのは大きいと思うし、それが作品の厚みを出すことも充分考えられる。不幸も幸福も人それぞれで、見方によっては変わってくると言ってしまえばそれまでだが。生まれてくること自体を不幸と呼ぶ人もいるだろう。幸福はあまり種類はないけれど、不幸は多種多様で、物語にしやすいっていうのもあるんだろう。ちくしょう、みんな大喜利だ。
 
 夢が本心かどうかとか、不幸でなければ物語は作れないのかとか。どうでも良いと言えばどうでも良いだろう。残るのは嫌な汗だけだ。ただただ、深く、深く自分の中に潜っていって、何もないかもしれないけれど、深く潜らないことにはそれも分からない、と思う。

夜になる
二時間ほど眠ってしまったようだ
それよりも短いかもしれない
あるいは長いかもしれない
もう何百年も経ってしまったのかもしれない
 
慌てて洗濯物を取り込む
すでに辺りは真っ暗で、洗濯物は湿っている
干し始めるのも少し遅すぎた
朝起きられなくて
太陽が傾き始めていた
 
家の前の街灯が消えている
そのせいで辺りが余計に暗い
昨日は点いていた
今日は消えている
そんな感じで点いたり消えたりしている
そのうち永遠に消えてしまうんだろう
 
窓も開けっ放しだった
また雨が降ると家の中まで吹き込んでくる
閉める
外を見る
街灯は、消えている
 
ああ、死ぬんだなと思う
もしかしたら、もう死んでいるのかもしれない
死んでしまった僕が、自分が幽霊になったことにも気づかずに
洗濯物を干して、昼寝して、慌てて取り込んで、窓を閉めて
辺りは真っ暗で、街灯が消えていることに気づいて、
ああ、死ぬんだなと思っている
 
疲れている、が口癖になる
口に出すと余計に
幽霊になってからも疲れてしまうのだ、僕は
 
街灯は、消えている
今日も

幸福論

 幸福度を上げたい。
 あり余る富とか、無限の睡眠とか、満漢全席とか、回らないお寿司とか、そういうのもほしいけど、とりあえず一時間長く眠るようにして、良質な睡眠のための運動とか温かいココアとか、行列のできるラーメン屋とか、そんな感じから始めたい。新宿の「らぁ麺 はやし田 」は食べログ高評価というだけあって、美味しい。「麺屋 翔 本店」も塩も良いが、水曜限定の味噌ラーメンも美味しい。
 
 酒も良いけど、酒は弱い。煙草は煙い。薬は依存症が怖い。幸福度はちょっとずつしか上がらなくて、しかもそのうちに慣れてしまってなかなか上昇が鈍くなっていくのに、不幸度は一気にやってきて、しかも慣れることがない。いつまでも慣れない。変な汗がずっと出る。
 大人になるって、嫌なものとも付き合わなきゃいけないもんだと気づいてしまって、まあそれによって得られる関係性とか、生活のための金銭とか、そのためには仕方がないのだけれど。だから、嫌なものと付き合えるように、不意に目にした悪意に自分がやられてしまわないように、少しずつ自分の幸福度を上げておく必要がある。無意識に悪意を撒き散らす人を見た時に、自分がそれに呑み込まれてしまわないように、どうせ向こうは何も感じずにパフェとか食ってるんだろうから、こっちも気にせずにパフェでも食べようかと(「珈琲西武」のパフェは好き)、悪意をスルーできるようにしておこうと。
 
 でもそうそう上手くはいかなくて、気がつけば肩は凝るし、腰は痛いし、変な汗で体中はベトベトするしで、散々である。何でそんなに幸せになりたいのかと言うと、生きることを肯定したいというのと死なないようにするためで、なんで生きたいのかと言うと、結局生きることを選択してしまったからである。何の因果か、最初に生まれることがあって、そこから死ぬことではなく生きることを選択してしまっている。人生の意味とか、目的とかそういうのは別にして、とりあえず生きることを選択している。そういうシステムなのか、ただ選択させられているような気もするが、とにかくそうなっている。どっち選んだって良いはずなんだけど、表面上は自分が選んだということにして、やっていきたい。
 そんな感じで、向こうがパフェ食ってるならこっちもパフェ食っているアピールして、いや自分は幸せなんで、全然大丈夫なんで、と空元気をアピールしつつ、ラーメンも食べ、ついでに餃子もつけて、なるべく早めに何も考えずに眠れますように。