日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

 
 人の短歌を読んでいると、「これ、本当のことなのかな。それとも想像上のことなのかな」と考えることがたまにある。別に短歌の内容が真実かどうかなんて、作者自身が分かっていればいいのだろうし、本当にあったことだけを短歌にする必要なんて全くないのだが、個人の肌感覚として時にそれが問題になるようにも思える。
 
 私はうたの日という、インターネット歌会を毎日行っているサイトで、以下の短歌を投稿し、「いかにも嘘くさい」と評を頂いた。
 
万札をビリビリにして川に撒き今日という日の弔いをする
『 ビリ 』 ニコ #うたの日 #tanka http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=1347e&id=9

 

 頂いた評は以下である。
 
「葉万札をビリビリにして」はいかにも嘘くさい。短歌は真実を詠む必要はないが、リアリティはあった方が読者に伝わると考える。
 
 正直、この評を頂いたことが今でも時々思い出すくらい悔しいし、もう少し違う言い方はないのかなとも感じるけど、評自体は非常に的を射た発言だと思う。では、この「嘘くさい」が短歌において何が問題なのだろうか。短歌において「嘘」は良いけど「嘘くさい」のはダメなのだろうか。
 ここからは個人的な見解になってしまうけど、「現実に起こり得ないことを、現実に起こったように詠む(現実に存在するものを使う)」ことが問題になるのだと思う。だから、
 
1. 現実に起こったことをそのまま詠む
2. 現実に起こり得ないけれども、想像上や夢の中のこととして詠む(現実に存在しないものを出すなどしてそれを分かるようにする)
3. 現実に起こり得ることを、現実に起こったように詠む
 
といった場合はあまり問題視されないのではないだろうか。そして、更に言ってしまうと短歌において大事になるのは、「嘘をつくにしろつかないにしろ、そこできちんと自分の思いを言い表せているだろうか」ということだろう。
 
 俵万智さんの超有名な短歌で
 
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日/俵万智
 
というのがあるが、これは実際にはサラダではなく鶏のから揚げであったことや、七月六日というのも意図的に設定した日付というのはよく知られていると思う(一応Wikipediaにも載っている)。
 
実際は鳥のから揚げをいつもと違う味付けにしたら『美味しい』と言われたので、『これで今日は記念日だな』と思ったのがきっかけであったということと、爽やかな感じを出すためにメインではなくサイドのものが記念日になるということが表現したかったことや、サラダのSや7月のSが響き合うことや、7月7日では七夕であるので1日前にずらしたことを自身が語っている。
 

  

 しかし、ここでは「実際には鶏のから揚げであるから嘘ではないか」や「七月六日ではない」といったことは問題にはならない。あくまでこの短歌で表現したいのは、「君が料理を褒めてくれたことを、新しい記念日にしたいくらい嬉しいと思っている」ことであるからだ。ここでは、「3. 現実に起こり得ることを、現実に起こったように詠む」、ということが行われている。だが、ここでもし例えば「フカヒレ記念日」といった、あまり現実的でない(しかし現実には存在する)ワードを出すと、嘘くさくなってしまうのではないかと思う。
 私の短歌に戻ると、「万札」というのは現実に存在するが、それをビリビリに破るというのは現実的な話ではない。そのため、これは「現実に起こり得ないことを、現実に起こったように詠む(現実に存在するものを使う)」ということをしている。これを、例えば「君との写真」にすれば、「3. 現実に起こり得ることを、現実に起こったように詠む」こととできるし、「人生の青写真」とすれば(歌としての出来が良いかは別として)、「2. 現実に起こり得ないけれども、想像上や夢の中のこととして詠む(現実に存在しないものを出すなどしてそれを分かるようにする)」ことができる。蛇足だが、私は昔の恋人との写真を破いて川に撒いたことはある。
 もう一つ、この短歌で良くないと思うのが、この短歌において「自分の思いを言い表す」ということがきちんと出来ていないことだろう。ここで言いたいのが、貨幣主義への批判なのか、単に仕事で疲れすぎてしまったためなのか、そもそも何が言いたいのかが分からないため、上手く言い表せているとは言えない。もしかしたら実際に万札を破き、川に撒いた経験がある人が世の中にいるのかもしれないが、そういう人は「今日という日の弔い」というフレーズではなく、もっと違う思いを抱くのかもしれない。この短歌では、そこに真実味を持たせるだけの強さが足りない。私は、「万札」というワードを使って嘘の話を作ってしまっただけではなく、作品内に真実味をもたせることが出来なかった。そのため、「嘘くさい」と言われてしまったのだろう。ここで、「真実味」という言葉を使ったが、これは「リアリティ」とも言い換えることができる。ただ、作品においてリアリティが必ずしも必要かというと、必要なのは設定(フレーム)のリアリティではなく、結果として生じる感情のリアリティなのだと思う。だから、この短歌は、もう少し感情のリアリティを出せれば、違う評価を受けられたのかもしれないなと思う。
 ここまで自分の作品をけなしておいてあれだが、作品自体はそれなりに気に入っていて、それはその時仕事でクタクタに疲れ切っていて、給料はもらったのだが、それが会ったこともない家主から借りている賃貸の家賃分にもならないと考えてしまって、なんだか誰のための一日だったのだろうと思って詠んだのだ。なので、
 
万札を破りたいほどの憂鬱さ今日の私を弔うために
 
くらいにしたほうが良かったのかなと思う(出来は置いといて)。本来私が言いたかったのは、一日空しく働いたことの憂鬱さだったのだけれど、それを作品に落とし込めてはいなかったのだろう。ただ、この気持自体は本当のことではある。
 まあ、結局何か表現したいというのがまず一歩目だと思うから、嘘をつくことに表現上意味があるのであればそれで良いのかもしれない。それに、現実的に起こり得るか得ないかの判断基準は人によって異なるから、実際にあったことでも嘘っぽいと言われてしまうこともあるだろう。サラダを普段食べない人にとっては、サラダ記念日も嘘だと言われてしまうかもしれない(そこまでくると、想像力が足りていない気もするが)。
 
 余談だけど、上手いと思う短歌と、そうではない短歌の違いはなんだろうかと考えた時、私は
 
・言葉の変更が不可
表現者が無理なく等身大で詠んでいる
 
ことがまず挙げられるかなと思う。特に前者について、上手い人は言葉の選び方のセンスが絶妙で、それ以外に考えられないという言葉をチョイスしている。
 あと、短歌の虚構について調べると、「私性」の話が必ず出てくるのだが、短歌の短さを考えると、余計な情報を入れる隙間がないと感じられるので、必然的に「作中行為者」は「私」に近しい存在となる。サラダ記念日で言えばサラダ記念日を設定したのは私であるし、万札をビリビリにしたのは私である。どこぞの名の知らぬAさんでもなければ、君でもない。ただ、それは一首のみを鑑賞した時に顕在化するもので、連作で見ると松野志保さんのような例もあるし、読者が何を求めるかということにもなるので、ちょっとこの辺は自分でもはっきりしていない。短歌に暗黙のルールがあるように感じられることもあるし、積み重ねた歴史があるために集団の文学という側面も感じる。そもそも、自分が学が浅い上に、短歌史についてもちゃんと分かっていないので、自分の中で何もはっきりとはしていないのだけれど。虚構性の話も含めてもう少し自分の中で咀嚼していきたい。
 ここまで書いてなんだけど、自分が短歌を詠むのは、誰かに読んでもらい、評価されたいためなのかなとか考えてしまって(評価されたら嬉しいのは嬉しいのだけれど、それが第一目的なのだろうか)、なんかよくまとまらないし、短歌の虚構の話は4年前の石井僚一さんの件でさんざん議論されただろうから(その時はまだ短歌をやってなかった)、今更私が何か新しいことなんて言えないのだけれど、ここまで書いてしまったので、何となくアップする。あとで読み返せると自分が嬉しいかもしれないと思い。
 
参考にしました。
 
石井僚一さんの件
 
短歌と私性について