日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

例えば運命というものがあるとして

 
 最近変な夢を見る。夢に変も変じゃないもないというか、そもそも夢というものは変なものなのだが、とにかく変な夢を見る。ヌメッとして気持ち悪く、それでいてくっきりとした輪郭を持った夢。眠りが浅いのかも知れない。朝の五時頃不意に起きてしまい(この時は夢を見ない)、そのままもう一度眠りにつく。その時に変な夢を見る。夢を見たあとは汗をびっしょりとかいている。ヌメッとして気持ち悪い汗を。
 夢の中の私は、現実と同じ様に何でもない人間である。非力で馬鹿で、ちょっとした天災にでも見舞われたらおそらく生き残れないであろうと思われるほど運がない。夢の中でくらい、夢を見させてほしいが、夢ですら私には厳しく、私はヤクザに追われたり、崖から足を滑らせたり、古い教会の階段が崩れ落ちたり、とにかく散々な目に遭う。
 昔の夢もよく見る。中学校で剣道部に入っていた時のことや、高校でコピーバンドをやっていた時のこと、大学でのテストのこと、研究室のこと、鬱で辞めてしまった前職のこと。こっちの夢でも大体酷い目に遭う。剣道部では体が動かなかったり、無意味に顧問の先生に怒られたりする。バンドは譜面を覚えてないまま本番を迎えたり、覚えたはずの譜面が本番で飛んでしまったりする。テストは勉強しないまま迎えたり、そもそもテストの時間に起きられなかったり。研究では結果が出ないし、仕事では上司に怒られ、会議には遅刻する。これは実際に起きたことも起きなかったことも夢で追体験しているのだけれど、あの時起きてほしくないなあと思ったことが多い。何故わざわざ夢でもう一度嫌な思いをいなくてはならないのか、夢を見て朝起きるたびに暗澹たる思いがする。
 
 夢から目が覚めると、今この瞬間まで必死で生き抜こうとしていた場所が、全て幻であったことにようやく気がつく。何だか馬鹿馬鹿しい話だけれど、今さら夢の世界に戻るわけにもいかない。そして、現実の私は夢の中と同じ様に、非力で馬鹿で、必死で生き抜こうとしなくては、この世界では恐らくすぐに死んでしまうだろう。
 
 必死で、全力で生き抜いていかなくてはならない。
 
 目を覚ますたびに、許されていないような気がしてくる。今までいた世界からも、これからの世界からも、受け入れられてない気がする。30歳を過ぎてから特にそうしたことを感じるようになった。そして変な夢を見るようになった。世界から逃げるようになった。必死で逃げてきたのに、逃げた先の世界からも受け入れてもらえなかった。
 だからといって、そのままその感情に沿って自殺をしてしまうということはないけれど、このままで大丈夫かなと不安な気分になってしまう。何だか歳を重ねるごとに、その傾向が強くなっている。
 誰だって考えたことがあるだろう。元々は30歳くらいで死んでしまうつもりだった。30歳までに何か必死でやってみて、それで上手くいかなかったら自ら生を絶つのがいいだろうと考えていた。しかし、実際のところ、そんなに必死でやってこなかったし、いざ30歳になってしまえば死ぬことが怖い。30歳になったら自動的に自死するようなプログラムは、私の細胞には組み込まれていなかった。アポトーシスの異常は起きない。身体は正常に管理されている。心臓を意図的に止められる人間はいない。死ぬためにはビルから飛び降りるか、首をつるか。いちいち行動が必要だ。めんどくさい。
 
カミソリは痛い、水は冷たい、薬は苦い、銃は違法、縄は切れる、ガスは臭い。生きてる方がマシ。
 
映画『17歳のカルテ

 

 でも、一度頭に染み付いてしまった希死念慮はそう簡単に離れていってくれないのかもしれない。私は30歳で死ぬべき人間であったという思いがしてくる。あるいはもっと前に。25歳? 20歳? それとも、もっともっと前に。
 神様というものがいたとして、運命とか天命とかいうものがあったとして、もっと前に死ぬべきだと決められていたのかもしれない。それの年齢を越えてからも、のうのうと生き延びているから、こんな『世界に受け入れられていない』なんて、考えが浮かぶのだろうか。
 いや、あれは一時の気の迷いだったんです、本当のことをいうと、そんな30歳で死ぬつもりなんて、さらさらなかったんです。なんて言ってももう遅いのだろうか。神様は、世界は私を二度と許してくれないのだろうか。
 
 昔読んだ何かの漫画の話だが、幼い子供を失った夫婦が教会にいて、妻は「なぜあの子がこんなに早く死んでしまったのでしょう」と泣き崩れ、それに対して夫が「神父様が仰っていただろう。誰にでも天命があって、幼い時に死んだ子供は天使に生まれ変わるって」と慰める。神父はその様子を悲しげにじっと見つめる。そんなシーンを覚えている。誰にでも天命がある。
 
「二十五まで生きるの」と彼女は言った。
「そして死ぬの」
 
一九七十八年七月彼女は二十六で死んだ。
 

 

 死ぬべき時が分からなくなって、何となくフィットしない世界で今日も生きている。五十になっても天命を知ることはないと思う。そもそも三十で立っていない。
 借り物のようだ。借り物の身体で、仮の生を生きている。いつかこれは返さなきゃいけないのだろう。もしくは、もうすでに返すべき時は過ぎてしまったのだろうか。
 
 最近、朝起きるのが少し、怖い。