日々のこと

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聲の形

 
聲の形』のネタバレが満載です。

  

 先日、映画版『聲の形』のテレビ放映を見ていたらいじめのシーンで居た堪れなくなった、というのをTLで見かけて、そういう意見もあるよなあと思った。あとは劇場で公開されていた時に、「障がい者をいじめていた奴が許され、挙げ句の果てにはそのいじめていた子とくっつくなんて、りえない」というのも見た。それについてまあ、お話だからとも言えるが、それはある意味でリアリティがないことの裏付けなのかもしれない。
 
 私は『聲の形』の漫画版が好きで、何度も読んで昔のブログに感想をアップしたし、映画も劇場で見た。個人的な意見としては、この話の主題は「いじめっ子といじめられっ子の和解」や「障がい者と健常者の交流」と言ったものではなくて、「過去の克服とそれに伴う成長」だと思っている。また、どこかのブログで見た意見の受け売りなののだけれど、石田くんのキリスト的自己犠牲と死、そして復活を感じた。だからいじめや障がいは話の主題ではなく、あくまで要素の一つでしかないと考えている。いじめを主題にした話は他にもあると思うし、障がい者について書かれた漫画であれば、山本おさむさんの「どんぐりの家」の方がずっとリアリティがあるだろう。
 
 もちろん、 一要素だから適当に描写していいのかというと、そうではないが、この作品においてそれらは作品内できちんと機能していて、作品に必要な要素になったと思う。嫌になるほどゆっくりと詳細に描かれる石田くんの過去への後悔、懺悔、それらを引き立たせるためにいじめという要素は、はっきりとは主張せずとも読者の心に響いてくるし、西宮さんの耳が聞こえづらいという事実も、耳が聞こえる人同士でもすれ違いは起きる、ということを読者に気がつかせるために、必要な条件であるように感じた。
 
 ただ、この作品が「いじめ」や「障がい者」に向き合って描写している作品なのか(あるいは強度を持っているのか)、例えば昔いじめられていた人達や現在進行系でいじめられている子供達、障がい者の人達にこの作品を見せて、こんなの嘘っぱちじゃないかと言われてしまった時に、そんなことないと答えられるものなのか、と考えた時に、私個人としては難しいかもと思ってしまう。それらはこの作品の主題ではないだろう、と言えてしまうし、詳しくは知らないが作者自身がいじめられっ子でも障がい者ではないという可能性もある。もし、嘘っぱちじゃないかと言って読むのを止める人や、批判をする人がいたとしても、(悲しいことだけれど)仕方がないのかもなと思う。ただ、これだけ過去の克服について丁寧に描いた作品を他に知らないので、そのテーマに沿ってであれば、ぜひ読んでほしいとは思う。
 
 オンラインの歌会で「レイプ」という題詠が出た時、どういう経緯でこの題が選ばれたのかの詳細は不明だが、少し議論になった。私は下の短歌を提出したのだけれど、その後でこの短歌を出すことの是非についてやはり考えてしまった。
 
命懸けでないのならば滅びよとメスに喰われるオスのカマキリ
『 レイプ 』 ニコ #うたの日 #tanka http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=1340c&id=16

  

 例えばレイプ被害者のフォーラムで短歌を募集されたとして、この短歌を提出できるのか、そこで「あなたはなぜこれを詠んだのですか? これを読んで被害者の人がどう感じるのか考えましたか?」と聞かれた時にちゃんと答えられるのか、私はこの短歌に(あるいは言葉に)責任を持つことができるのだろうか、と考えてしまった。
 
 そういうものは作るべきではない、というのも一つの意見だろう。私はレイプ被害者でも加害者でもないし、障がい者でもなければ、いじめっ子だったこともいじめられっ子だったこともない。だから、そういうテーマで作品を作るべきではないのだ、ということだ。となると、創作者は自身の体験のみを作品にすべきなのか、という反論もあり、悩ましい。作品には、「作りたいもの」と「作れるもの」の二種類があり、作品がこの二つを満たすと往々にして、等身大の良い作品になると思っている。「作れるもの」は技術的な面もさることながら、テーマへの知識も伴っていることが重要である。とすると、私は知識も技術もまだまだだから、やはり体験したことをベースにした方が、良いのかなとは思っている。そうでないと、「あなたはなぜこれを作ったのですか? これを読んだ人がどう感じるのか考えましたか?」というのにきちんと答えられなくなってしまう。
 もちろん作者は神でも完璧超人でもないのだから、全ての意見に答える必要も責任もなく、そうした意見の黙殺も手なのだが、私はまだまだなので、何か言われて後ろめたく感じないように、技術も知識もつけていき、作品の強度を上げていきたい。と言いつつも、どうすれば強度が上がるかなんて分からないし、いっそ開き直るのも手だよなあとも思い、なんか色々迷っている。
 
 話が逸れたが、『聲の形』は本当に良い作品なので(大今良時先生が作画の『マルドゥック・スクランブル』もめちゃくちゃ面白い)、「いじめが」とか「障がい者が」とか言わずに見てほしいし、映画版しか見たことがない人は漫画版も見てほしいなと思っている。
 余談だが、『聲の形』の劇場版を見た時に、終わった後に特に感動したとも言わずに原作との違いを指摘していたら、一緒に見た人(妻)に「情緒がなさすぎる」と怒られた。妻は映画を見てボロボロ泣いていたが、私は粗探しという下らない作業をしてしまい、本当に後悔している。元々感情を表現が苦手で、それがはっきりと表面化してしまった感じだ。それから少しずつ感情表現について考えるようになった、という意味で印象に残っている。
 
 過去のブログの文章(しかし、めちゃくちゃ下手な文章だな)。
 
タイトル:聲の形を読んで(2014年10月27日)
 
 「聲の形」という週刊少年マガジンで連載中のマンガの最新刊(6巻)まで読んだので、レビューというか感想というか。自分の中では「このマンがすごい」と心の琴線に触れたので、その理由も考察しつつ。
 
 この作品は、読み切りが週刊少年マガジンに掲載された時に結構話題になっていて、その読み切りは読んだのだが、その時はふーむという感じでそこまで印象に残る話ではなかった。良くも悪くも障がい者を題材にしたちょっとした恋愛話だなと思った。連載になっていることは知っていたが、週刊誌で追っていなかったので、改めて読んでみてこんな話だったのかとかなりびっくりした。
 
 まずこれを読んで自分が一番印象深かったこととして、この話は石田君が主人公であって、彼の物語であるということだ。ヒロインである西宮硝子さんの聴覚障がいも話の筋に重要に絡んでくるが、それをメインに話を構築しているわけではないという印象を受ける。
 なぜそう思ったのかというと、高校生編の石田君は手話を使えるためか、西宮さんのコミュニケーションでものすごい不自由を感じている様子がないためだ。もちろん、西宮さんの一世一代の告白を石田君が華麗にスルーしたり、石田君自身が西宮さんの考えが読めなくてもやもやしたりする場面もあるが、これは「人は100%思いを伝え合うことができない」という大前提からすると、健常者同士でも十分起きえる状況である。
 そういった意味で作者は敢えてそういう障がい者と健常者にありがちなコミュニケーションの壁みたいなものを描かなかったのかなとも思う。こういうコミュニケーションの齟齬は誰にでも起きえることだと、障がい者だとか健常者とかは関係ないんだぞ、とそういう印象を読者に持たせたかったのかもしれない。
 
 じゃあ、この作品のメインテーマはなんなんだろうかというと、私としては石田君達の「過去の克服」なんだろうなと思う。
 一巻は石田君たちの小学生時代が描かれていて、読み切りはここで終わっていたがゆえにふーんで終わってしまった。しかし、二巻以降は小学校時代に犯した過ちというか、消したい過去を如何に乗り越えていくかで話が展開していく。
 石田君は何度も「こんな風に友達と笑い合っていいのだろうか」や「あのころの自分を殺したい」と葛藤する。私はこの「あの頃の自分を殺したい」という気分がすごく共感できる。ここまで強烈でもないけれど、誰だって消したい過去や忘れたい過去を持っているものだと思う。
 布団にもぐりこんで、足をバタバタさせて、なかったことにしたい過去が誰にでもあるだろう。例え中二病のようなものだとしても。
 
 今までこういう過去との対話を丁寧に描いた作品を知らなかったので、とても衝撃を受けた。よくある過去との決別の仕方としては「あの時は仕方なかったという諦め」や「時が解決してくれる」や「原因となるものに出会って許しを請う」などがあるが、どちらにしろ他作品ではそこまで話数を稼がない気がする。
 読者も見ていてつらい部分ではあるし、この作品において西宮さんは石田君をとっくに許しているというか、そもそも恨んでいなかったわけだし。
 でも、石田君はそれを良しとはせず、ゆっくりと周りを巻き込みながら、過去を克服していく。それは見ていてつらい作業でもあるが、共感できる作業でもある。そして、彼の行動によって、その過去の克服は他の作品のように簡単な作業ではないことを気づかせてくれる。
 もう、石田君の行動一つ一つがやきもきさせられて、たまらなくて、愛おしくなる位だ。あと、この作品のように過ちを犯した年齢が食学生のような低年齢だと、「大人や周りの理解がなかった」といって葛藤を減らすこともやりがちだが、この作品はそれも許さない。あくまで、自分たちの力で過去を克服する姿が丁寧に描かれている。
 
 もちろんマンガだから多少ご都合主義なところもある。石田君の家族や友達も、現実ではありえないくらい理解ある人達に思える。でもそういうのも関係ないだろう。私だったら、多分逃げ出しているような環境だと思う。
 石田君はなんて謙虚でいい男なんだろうなあと思う。あと、ところどころ挿入されるギャグと結絃のキャラが良くて、そこも大好きだ。暗くなりがちな話が、それらのおかげで読みやすくなっている。
 早く続きが読みたい。

 

 タイトル:休日を無駄に過ごした時の焦燥感(2014年11月3日)
 
ふと、「聲の形」をもう一回読んだ。
これ改めて色々考えながら読むと心がえぐられる。
漫画をこんなに真剣に読むこと自体が久しぶりではないだろうか。
 
過去は清算すべきなのだろうか。
それが今生きていくことに支障をきたすほどのものだとしたら。
 
今、生きるとはなんだろうか。
果たして人生とは本当に生きる価値があるものなのだろうか。
よく分からない。
答えがはっきりしないという方がより正確な表現だろうか。
 
目の前にあるタスクを消化していくのに精いっぱいだが、タスクがなくなったら、なにを糧に生きていけばいいのかも分からなくなっている。
 
今を一生懸命生きたところで残るのは思い出という名の塵芥なのかもしれない。
ならば、どこかで自分なりの妥協点を探す必要があるのだろうか。
 
生きる意味や永遠について本気で考えたのは中学のころだ。
きっかけは中学の夏休みの課題で「いちご同盟」を読み、読書感想文を書くという段になって、生きる意味ということを痛烈に考えた。
それまでは漠然と考えていた死後の世界や生きる意味が、急に説得力のないものに思えてきた。
人は「死んだら終わりなんだ」という、ただそれだけのことに気が付いてしまった。
小説にあるように、誰かが自分を覚えてくれるのかもしれない。
でも自分の意識は死んだら無くなってしまうのだ。
それに意味や目的はあるんだろうか。
あの頃よりは思い悩むことは少なったとはいえ、今でもたまにぐるぐると考えている。
 
同時にこの世界に無限なものはないんだといいことにも気が付いた。
どんなものにも終わりが来る。
数の世界を別として。
それはとても残酷なことだが、確かなことであるし、ある意味有限であることは救いなのかもしれない。
 
生きることに対して意味や目的を見出すのは何か間違っている気もする。
しかし、それはそれとして生きること自体に価値はあるのだろうか。
なんか、それも人それぞれという意見で終わってしまいそうだ。
みな、その日を生きるのに必死なのだろう。
 
でも、ただそこに自分を信じ込ませたいとい思いがある。

  

 

  

 

感じない子どもこころを扱えない大人 (集英社新書)

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