日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

社会

 台風が来たので、頭が痛くなった。頭痛のままに書きます。なので、全部間違っている。
 
 相模原の殺人事件も、大口病院の事件も、LGBTは生産性がないとか、自民党改憲草案に権利には義務が伴うと書いてあるとか、何だか根っこのところは同じような気がしてきた。雑にまとめると余裕がないということだけど、格差が目に見えて開いている。しかも情報化社会のために、文字通りそれを目にする機会が増えている。
 世界史で見ると、人々が集団生活を始め、社会を形成したのは、恐らくそれが生きていくために有利だったからだ。狩猟民族でも、一人が見張りをし、一人が獲物を追い詰め、一人が獲物を仕留めるなど、役割分担をすれば、一人の人間が獲物を捕まえるよりもずっと仕留められる確率が上がる。そこには役割の違いはあれども、格差や階級というものははっきりと存在しなかった。
 その後、農耕社会となり、文明と言われるものが誕生すると、神官という階級が生まれた。その社会では、彼らが実質的な支配層だった。彼らの仕事は神の声を聞く、つまりは天候の予想だった。彼らは生産性という観点から見ると何も生み出してはいないが、それでも市民を支配することができた。彼らは天候を当てることができれば、そのまま市民からの崇拝を得ることができたが、逆に外してしまうと殺されてしまう立場だった。それとは別に、農業という一次産業を行うもの、道具を作る二次産業を行うものもいた。
 そのうち、集団同士で小競り合いが起き、支配層が被支配層からの攻撃を防ぐために、兵士と呼ばれる階級が誕生した。こうして、江戸時代における、士農工商が生まれる。一応、神官という身分はこの中では商人となる。彼らは何も生み出しはせず、右から左へ物や、あるいは物ではない何かを動かすだけだが、それによって冨を得た。
 現代でも神官が支配層になっている。未来を見通せると言われるものが、人々を支配している。彼らはSNSを使って、被支配層の不安を煽り、お金を吸い上げている。そして、被支配層に、こっちの世界は良いところだと言い出す。こっちにおいでと。騙されてそっちの世界に行こうとすると、また痛い目に遭う。
 もう少し、「自分は自分、人は人」みたいな社会だったと思うのだけれど、それはすでに一億総中流の時代の幻想なのだろう。格差が広がり、それを見せつけられて、上の階層からの煽りを受け、向こうの世界に行こうとすると逆に利用されてしまう。実際のところ、子供を生むことが生産性というのも、完全家畜化された世界観に思える。乳牛は経済動物と呼ばれ、自らが生み出した牛乳から得られる売上よりも、自分が食べる餌の原価が下回ってしまうと、その時点で経済的にはマイナスなので、屠殺されてしまう。生産性がないと行ってしまう人は、人間をそういう風に見ているのだろう。
 まあ、自分自身が自民党に対して怒りを覚えているとか、仕事の生産性がないということを嘆いているわけではないし(というか、生産性なんて言うのも所詮メルヘンに過ぎない)、この社会に絶望しているわけでもないのですが。むしろ、そこまで嫌いでもなくて、それはなぜだろうか。
 
 台風が去ると、また暑くなる。空が低く見える。暑いからまだこれを夏と呼ぶのだろう。そのうちに涼しくなれば、秋が来たと言ってしまう。目に見えないのに、秋が来たと言ってしまい、目に見えない秋を好きだと言ってしまうのだろうと思う。

メタモルフォーゼの縁側とArtiste

 鶴谷香央理さんの「メタモルフォーゼの縁側」がなんかとても良い。今ならpixivコミックで全話読めるから興味のある方は読んでほしい。もし、Twitterアカウントをお持ちであれば、WEB漫画総選挙というものに投票してほしい(よく分からないけど)。
 
 少しBL要素と言うか、BL漫画を通じて老婦人と女子高生が交流していく話なのだけれど、BLのシーンはほぼないので苦手な人も大丈夫だと思う。
 
この先、含ネタバレ
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新宿を歩いてしまって

 新宿を歩いてしまって、ビルの二階に金貸し業者が、三階に不動産屋が入っていることに気がつく。三階で不動産を買うためのお金を、二階で借りることが出来るのだろう。よく出来ている。幽霊の住む物件を紹介してくれる不動産屋もいるらしいけど、会ったことはない。
 地上を歩いて新宿三丁目から新宿駅に向かう時、坂がだるいなあと思ってしまう。反対側の道路に渡ればエスカレーターがあるので(NEWoManの方だ)、信号待ちをする。南口の広場のエスカレーターは、夜は止まっていることが多い。なぜだろう。実は道路の下に小さなトンネルが通っているから、信号待ちはする必要は本当はない。一度だけ夜に通ったら、ホームレスの人が寝ていた。幽霊はいなかった。
 喧嘩が強いことを自慢するクラスメイトはいなかったなと思う。というより、喧嘩をするようなクラスメイトがいなかった。私立の進学校だったから、まあそうだよね、そうなのかな。尾崎豊の「卒業」みたいな世界ではなかったなあ。ただ、窓には鉄格子が取り付けられていた。外から中を守っているのか、中から外へ出ることを防いでいるのかは分からない。人間を思い切り殴ったことはないし、殴られたこともない。幽霊ならばどうだろうか。人混みを歩くのが怖い。肩とかぶつかって、因縁をつけられたらどうしよう。
 でも、これだけ人が多いと、幽霊が紛れ込んでいても分からないだろうな。幽霊は歩きスマホをしているから、ぶつからないように、こっちから避けないといけない。こっちが歩きスマホをしていたら、お互いにぶつかったことに気づかないだろう。幽霊が私を通り過ぎて、何となく寂しい気持ちになって、未読だったメッセージが読まれる前に消えてしまい、カメラロールには撮った覚えのない写真が追加される。だけど、もし相手が人間だった場合、ぶつかって因縁をつけられるのが怖い。喧嘩をして勝てる自信はない。そもそも、喧嘩なんてしたくない。だから、真っ直ぐ前を見て、人混みの中をスイスイと歩いていく。相手が歩きスマホをしていたら、こっちから避けてあげる。そうやって歩いていると、私はこの街で幽霊になることが出来る。新宿を歩き切ることができる。

 
 人の短歌を読んでいると、「これ、本当のことなのかな。それとも想像上のことなのかな」と考えることがたまにある。別に短歌の内容が真実かどうかなんて、作者自身が分かっていればいいのだろうし、本当にあったことだけを短歌にする必要なんて全くないのだが、個人の肌感覚として時にそれが問題になるようにも思える。
 
 私はうたの日という、インターネット歌会を毎日行っているサイトで、以下の短歌を投稿し、「いかにも嘘くさい」と評を頂いた。
 
万札をビリビリにして川に撒き今日という日の弔いをする
『 ビリ 』 ニコ #うたの日 #tanka http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=1347e&id=9

 

 頂いた評は以下である。
 
「葉万札をビリビリにして」はいかにも嘘くさい。短歌は真実を詠む必要はないが、リアリティはあった方が読者に伝わると考える。
 
 正直、この評を頂いたことが今でも時々思い出すくらい悔しいし、もう少し違う言い方はないのかなとも感じるけど、評自体は非常に的を射た発言だと思う。では、この「嘘くさい」が短歌において何が問題なのだろうか。短歌において「嘘」は良いけど「嘘くさい」のはダメなのだろうか。
 ここからは個人的な見解になってしまうけど、「現実に起こり得ないことを、現実に起こったように詠む(現実に存在するものを使う)」ことが問題になるのだと思う。だから、
 
1. 現実に起こったことをそのまま詠む
2. 現実に起こり得ないけれども、想像上や夢の中のこととして詠む(現実に存在しないものを出すなどしてそれを分かるようにする)
3. 現実に起こり得ることを、現実に起こったように詠む
 
といった場合はあまり問題視されないのではないだろうか。そして、更に言ってしまうと短歌において大事になるのは、「嘘をつくにしろつかないにしろ、そこできちんと自分の思いを言い表せているだろうか」ということだろう。
 
 俵万智さんの超有名な短歌で
 
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日/俵万智
 
というのがあるが、これは実際にはサラダではなく鶏のから揚げであったことや、七月六日というのも意図的に設定した日付というのはよく知られていると思う(一応Wikipediaにも載っている)。
 
実際は鳥のから揚げをいつもと違う味付けにしたら『美味しい』と言われたので、『これで今日は記念日だな』と思ったのがきっかけであったということと、爽やかな感じを出すためにメインではなくサイドのものが記念日になるということが表現したかったことや、サラダのSや7月のSが響き合うことや、7月7日では七夕であるので1日前にずらしたことを自身が語っている。
 

  

 しかし、ここでは「実際には鶏のから揚げであるから嘘ではないか」や「七月六日ではない」といったことは問題にはならない。あくまでこの短歌で表現したいのは、「君が料理を褒めてくれたことを、新しい記念日にしたいくらい嬉しいと思っている」ことであるからだ。ここでは、「3. 現実に起こり得ることを、現実に起こったように詠む」、ということが行われている。だが、ここでもし例えば「フカヒレ記念日」といった、あまり現実的でない(しかし現実には存在する)ワードを出すと、嘘くさくなってしまうのではないかと思う。
 私の短歌に戻ると、「万札」というのは現実に存在するが、それをビリビリに破るというのは現実的な話ではない。そのため、これは「現実に起こり得ないことを、現実に起こったように詠む(現実に存在するものを使う)」ということをしている。これを、例えば「君との写真」にすれば、「3. 現実に起こり得ることを、現実に起こったように詠む」こととできるし、「人生の青写真」とすれば(歌としての出来が良いかは別として)、「2. 現実に起こり得ないけれども、想像上や夢の中のこととして詠む(現実に存在しないものを出すなどしてそれを分かるようにする)」ことができる。蛇足だが、私は昔の恋人との写真を破いて川に撒いたことはある。
 もう一つ、この短歌で良くないと思うのが、この短歌において「自分の思いを言い表す」ということがきちんと出来ていないことだろう。ここで言いたいのが、貨幣主義への批判なのか、単に仕事で疲れすぎてしまったためなのか、そもそも何が言いたいのかが分からないため、上手く言い表せているとは言えない。もしかしたら実際に万札を破き、川に撒いた経験がある人が世の中にいるのかもしれないが、そういう人は「今日という日の弔い」というフレーズではなく、もっと違う思いを抱くのかもしれない。この短歌では、そこに真実味を持たせるだけの強さが足りない。私は、「万札」というワードを使って嘘の話を作ってしまっただけではなく、作品内に真実味をもたせることが出来なかった。そのため、「嘘くさい」と言われてしまったのだろう。ここで、「真実味」という言葉を使ったが、これは「リアリティ」とも言い換えることができる。ただ、作品においてリアリティが必ずしも必要かというと、必要なのは設定(フレーム)のリアリティではなく、結果として生じる感情のリアリティなのだと思う。だから、この短歌は、もう少し感情のリアリティを出せれば、違う評価を受けられたのかもしれないなと思う。
 ここまで自分の作品をけなしておいてあれだが、作品自体はそれなりに気に入っていて、それはその時仕事でクタクタに疲れ切っていて、給料はもらったのだが、それが会ったこともない家主から借りている賃貸の家賃分にもならないと考えてしまって、なんだか誰のための一日だったのだろうと思って詠んだのだ。なので、
 
万札を破りたいほどの憂鬱さ今日の私を弔うために
 
くらいにしたほうが良かったのかなと思う(出来は置いといて)。本来私が言いたかったのは、一日空しく働いたことの憂鬱さだったのだけれど、それを作品に落とし込めてはいなかったのだろう。ただ、この気持自体は本当のことではある。
 まあ、結局何か表現したいというのがまず一歩目だと思うから、嘘をつくことに表現上意味があるのであればそれで良いのかもしれない。それに、現実的に起こり得るか得ないかの判断基準は人によって異なるから、実際にあったことでも嘘っぽいと言われてしまうこともあるだろう。サラダを普段食べない人にとっては、サラダ記念日も嘘だと言われてしまうかもしれない(そこまでくると、想像力が足りていない気もするが)。
 
 余談だけど、上手いと思う短歌と、そうではない短歌の違いはなんだろうかと考えた時、私は
 
・言葉の変更が不可
表現者が無理なく等身大で詠んでいる
 
ことがまず挙げられるかなと思う。特に前者について、上手い人は言葉の選び方のセンスが絶妙で、それ以外に考えられないという言葉をチョイスしている。
 あと、短歌の虚構について調べると、「私性」の話が必ず出てくるのだが、短歌の短さを考えると、余計な情報を入れる隙間がないと感じられるので、必然的に「作中行為者」は「私」に近しい存在となる。サラダ記念日で言えばサラダ記念日を設定したのは私であるし、万札をビリビリにしたのは私である。どこぞの名の知らぬAさんでもなければ、君でもない。ただ、それは一首のみを鑑賞した時に顕在化するもので、連作で見ると松野志保さんのような例もあるし、読者が何を求めるかということにもなるので、ちょっとこの辺は自分でもはっきりしていない。短歌に暗黙のルールがあるように感じられることもあるし、積み重ねた歴史があるために集団の文学という側面も感じる。そもそも、自分が学が浅い上に、短歌史についてもちゃんと分かっていないので、自分の中で何もはっきりとはしていないのだけれど。虚構性の話も含めてもう少し自分の中で咀嚼していきたい。
 ここまで書いてなんだけど、自分が短歌を詠むのは、誰かに読んでもらい、評価されたいためなのかなとか考えてしまって(評価されたら嬉しいのは嬉しいのだけれど、それが第一目的なのだろうか)、なんかよくまとまらないし、短歌の虚構の話は4年前の石井僚一さんの件でさんざん議論されただろうから(その時はまだ短歌をやってなかった)、今更私が何か新しいことなんて言えないのだけれど、ここまで書いてしまったので、何となくアップする。あとで読み返せると自分が嬉しいかもしれないと思い。
 
参考にしました。
 
石井僚一さんの件
 
短歌と私性について

早口

 自分で作ったものを読み返す時、なぜか頭の中で早口になってしまう。もう既に自分の中では何度も読んでいるのだから、今更じっくり読むこともないのだろうという意識が働くのかもしれないが、そのお蔭でしっかりと推敲することができない。というより、推敲という作業自体が苦手だ。それに人に読んでもらった時にも、「なんか早口に感じる」と言われたこともあるので、作品自体があっさりとしているというか、結論を急ぎすぎていて、どっしりと構えていないのだろうと思う。
 
 創作活動自体が苦しいなあと思うときもある。自分の中のスタイルが確立していないせいで、何を作っても今一に感じてしまうし、完成品のどこをどう直していいか分からなくなってしまう。とにかく、完成させて提出しようと思ってしまい、ゆっくりと見返すという作業がきちんと出来ていない。その場しのぎのような作品が増えていってしまう。
 
 夏休みの宿題の読書感想文なども、最終日に一気に読んで、取り繕ったような感想文を書いてしまうということを繰り返していた。それが、創作にも表れているのかもしれない。とにかく、提出しなくては、という気持ちになってしまい、もっともっと作品に向き合うべきであるのに、それが出来ていない。
 個人的には、創作は海の深く奥底へ潜っていく感覚に近い。苦しくてすぐに上昇して顔を上げたくなる。というか、すぐに顔を上げてしまう。もっと作品の中へ深く潜らないといけないのに、我慢ができない。ネットサーフィンをしてしまう。Twitterを見てしまう。集中力が続かない。向いてないなあと思う(愚痴)。
 まあ、誰かに強制されているわけでもないので、やりたければやればいいし、やりたくなければやらなくてもいいはずなのだけれど。どこかに焦りがあって、年齢的なことや、才能、始めるのが遅かったというのが理由なのだろう。とにかくやっていくしかないのだが。
 
 最近はあまりに暑すぎて、雪だるまなりたい。そうしたら、この夏はあの冬の状態のまま君の家の冷凍庫に大事に保管してもらって、また次の冬に出会えたのになあと思う。冷蔵庫が壊れてしまって、気付かれない内に融けて消えてしまうかもしれないけど。

さくら

 
さくら
おまえのめ
さくら
おまえのはな
さくら
おまえのくち
 
さくら
さくら
おまえは死ぬ
等しい時間に
等しい速度で
 
さくら
おまえのは
さくら
おまえのはだ
さくら
おまえのね
 
さくら
さくら
死にゆく姿よ
瞬きをすれば
もうおまえはいない
 
さくら
さくら
おまえの全てを愛す
その死に様さえも

雪を燃やす(短編小説)

 
 北へ北へと旅をしているうちに、冬になってしまった。
 それ以上進みたくとも足がない、と宿の主人に聞いたので、その村で冬を越すことにした。
 村には雪が降っていた。私が生まれ育った土地は暖かかったため雪が降ることはなく、私は雪というものを見るのは生まれて初めてであった。雪は話に聞いていたよりもずっと白く見え、そして雪が降る村は人が住んでいないかのようにひっそりとしていた。
「随分と静かなのですね、この村は」
 降り積もってゆく雪を窓から眺めながら私がそう言うと、宿の主人はお茶を入れつつこう応えてくれた。
「はあ、そうですねえ。雪が積もってしまうと、何もできなくなって家に篭もる他ないですから。それに雪が音を吸い取ってくれるのですよ」
「いや、それにしてもこんなにもひっそりとしていると、村全体が死んでしまったようですね」
「この村は冬になると一度死ぬのですよ。しかし、それは春に再生するために必要なことなのです。村は冬に一度死に、その間に雪が音や記憶や汚れを吸い取ってくれるのです。春から秋にかけて作られた嫌な記憶や溜まった汚れを冬の間に雪が吸い取って、そうして春になると何もかもが生まれ変わり、村は再び動き出すのです」
 
 雪のために外へ出ることもできず、私は宿に篭って、もう差出す相手がいない手紙を書いていた。
『拝啓 
 寒冷の候、つつがなくお過ごしのことと存じます。
 北へ北へと来ているうちに、遂には世界の果てのような場所に着いてしまいました。ここは恐ろしいほど寒く、そして信じられない量の雪が降っております。私は生まれてこの方、雪を見たことがなかったため、初めは新鮮な気持ちで見ておりましたが、段々と陰鬱な気分になってきました。この土地では雪が降っているため音がなく、また同時に白以外の色がありません。まるで死後の世界のようです。そのため陰鬱な気分になってしまうのでしょう。貴方様がいる世界が、このような場所ではないことを心から祈っております。
 それでは寒さが厳しくなってまいります。くれぐれもご自愛くださいませ。
 敬具』
 手紙を書いてしまうと、便箋を丁寧に折りたたみ、宛名の書かれていない真っ白な封筒に入れてから厳重に封をした。そして、それをそのままコートのポケットに乱暴に突っ込んだ。そうしてやることがなくなってしまうと、また窓の外の雪を眺めたが、実際には雪なぞ見ておらず、ぼんやりと考え事をしていた。冬を越したらどうしようか、このまま更に北へ向かうのか、それとも一度、南へ戻るのか。春になってから考えればいいとも思ったが、はたしてこのまま無事に春が来るのかどうかが私には分からなかった。深々と降り続く雪を見ていると、永遠に冬が終わらないのでは、とさえ思った。
 
 しかし、私の心配は杞憂に終わり、年を越してしばらくすると、少しずつ村も暖かくなっていった。私は少し気分が良くなって宿の主人にこう尋ねた。
「この降り積もった大量の雪は春になったらどこへ行くのでしょうか。川を流れ、海へ行くのでしょうか」
「雪ですか? この村では積もった雪を一ヶ所にまとめた後に、それを燃やすのです。燃やさずに溶かしてしまうと、吸い取った汚れやら何やらが、そのまま村とは関係のない海へと流れていってしまいますので。燃やした後にできる灰は、春になると畑に撒いて肥料にします。そうすることで、全ての汚れがこの土地に還ってゆきますから」
「雪を燃やすのですか?」
「そうです。あなたはもう少し暖かくなるまではこの村にいらっしゃるのでしょう? それならば雪を燃やす光景が見られますよ。ぜひ見ていって下さい。それはとても壮大で、悲しい光景です」
 
 次の週、私は宿の主人に案内をされ、村外れの広場へと連れて行ってもらった。そこには冬の間に降り積もった大量の雪が集められていた。自分の背の高さよりも高い雪の壁が延々と続いてゆく様は、確かに壮観である。その大量の雪を、村の人達が少しずつ燃やして灰にしてゆくのだ。
 不思議なことに、雪は白色でも、燃やした時の煙は赤や青や黄であり、また燃やした後に残る灰は銀に光っていた。
「あの赤は雪が吸い取った音の色です。青は人間の記憶の色。青が濃くなり、より黒に近いものほど悲しい記憶が吸い取られていると言われています」
 宿の主人が私に耳打ちをしてくれた。私は久しぶりに「音」というものを聞いた気がした。雪が降っている間に聞いていた「音」は常に薄い膜を通しているようであり、聞いていたことは実のところ聞いておらず、読唇術を使って人が喋っていることを理解するようであって、私はそれを「音」として認識できていなかったのだ。
「雪は悲しい記憶だけを吸い取ってくれるのですか?」
「いえ、そうではありません。ただ、この村で起きることは、どうしてか悲しいことが多いのです。そもそも、この雪が降る長い冬自体が悲しみの体現のようなものですから」
 主人は晴れやかな顔でそう言ってくれた。しかし、私にはその顔が本心から来るものかどうかが判断できなかった。
「私も五年前に妻に先立たれた時は、随分と悲しい思いをしました。私の一人娘も一度は南の方へ嫁いでいったのですが、流行病で旦那が亡くなりましてね。子供もいなかったので、そのままこっちへ戻ってきました。私達二人のそういった悲しい記憶も、この雪が全部吸い取ってくれて、こうやって灰になってゆくのです。もちろん悲しい記憶が完全に無くなるわけではなくて、記憶は残りつつも悲しみが少しずつ薄まってゆくのです。この村の住人はそうやって悲しみを乗り越えてきました。この村ができた遥か昔からずっとそうやってきたのです。そうしないと私達は悲しみを乗り越えることができなかったし、そうしないとこの村は悲しみで覆い尽くされてしまうでしょう」
 私は主人のそのもっともらしい言葉を聞きながら、小さな違和感を覚えずにはいられなかったが、それを口に出すことはなかった。雪に吸い取られた悲しい記憶は、雪とともに燃やしてしまうらしいが、それで完全に消え去ってくれるのだろうか。悲しみは灰と共に残され、それはこの土地に再び撒かれてしまうのではないだろうか。
「あなたも、もしこのまま旅を続けるのであれば、しばらくこの村で過ごしたらどうですか? 冬は大変ですが、それ以外の季節は良いですよ。あなたがどういった理由で旅をしているのか存じ上げませんが、何か悲しい理由がおありなのでしょう。この村にいれば、その悲しみもきっと癒やされますよ」
「いえ、私は……」
 主人の突然の提案に驚いてしまい、私は後ろによろけてしまった。そのことを恥ずかしく思い、誤魔化すためコートのポケットに手を入れると、何かが入っていることに気がついた。取り出してみると、それは宛名に何も書かれていない封筒であった。それを見て、私はああと小さく声を漏らした。私は、私の胸に永遠に消し去ることのできない巨大な悲しみがあることに気がついてしまった。
 私は主人の目をまっすぐ見据えこう切り出した。
「素敵なご提案ありがとうございます。でも、私は大丈夫です。このまま更に北へ向かいます。ただ、もしよろしければ一つお願いしたいことがあるのですが」
「なんでしょう?」
「この手紙も雪と一緒に燃やしてもらっても良いでしょうか」
 そう言って私は手紙を差し出した。主人はそれを見て何か言いたそうであったが、結局は何も言わずにそれを受け取ってくれた。
「良いでしょう。あとで私から頼んでおきます」
「ありがとうございます」
 
 更に月を跨ぐと、次の週に北へ向かう汽車が動き出すと宿の主人から聞いて、私は早速切符をとった。
 次の週、身支度をすると私は宿の主人にお礼を言って、汽車の停留場へと向かった。停留場は、村外れの広場の近くにあった。
 私以外の乗客がいなかったため、私は四人がけの席に一人で座り、窓から見える広場を見ていた。広場では今日も雪が燃やされていて、色とりどりの煙が空へと昇っていった。
 そのうち発車時刻となって、汽車は汽笛を鳴らしながらゆっくりと動き出していった。私の手紙はもう燃やされてしまったのだろうか、そう思った瞬間に、広場からはひときわ濃い、ほとんど黒に近い青色の煙が立ち昇っていった。あの煙がどこに行くのか、私がこの先どこに行くのかは分からないけれど、もうこの村に戻ってくることは、いやもう南に戻ることはないだろうな、と私は思った。
 その青い煙は空へ近づくにつれて色が薄くなってゆき、やがてほとんど雲に届きそうなところまで昇ってゆくと、空の色と同じになり、完全に見えなくなった。