日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

好きな人の最後の言葉

 好きな人とはなるべくずっと一緒にいたいと、片時も離れたくないと思って、それはどうしてだろうか。四六時中一緒にいる必要なんてないし、四六時中一緒にいたら却って疲れてしまうのではないか、そんな声も聞こえてくる。ずっと一緒にいたら飽きてしまうかもしれない、冷めてしまうかもしれない、それは危険なことだ。
 それでも、人生は確かに別れの連続で、いつ何が起こるのかが分からなくて、昨日まで元気そうだった人が今日いきなり亡くなったり、なんてこともあり得る。そうでなくても年間の交通事故の死者数の一人に自分がならないとも限らない。明日巨大地震があるかもしれない。そんな世の中。
 別れがある以上、そこには最後の言葉がある。「行ってきます」、「行ってらっしゃい」が最後の言葉だったなんていうのはよく聞く話だ。「お母さんなんて嫌いだ」が最後の言葉になってしまって後悔している主人公の話は、いくつかの漫画で読んだ。詩人は死ぬ前に辞世を残す。それは良くも悪くも後世の人々の心に残り続ける。最後の言葉、綺麗な言葉、汚い言葉。好きな人が別れの直前に発した言葉は、きっといつまでも私の中に残り続けるだろう。だから、だからなのだろうか。なるべく最後は綺麗な言葉を聞いておきたくて、なるべく最後の瞬間は一緒にいてあげたくて、好きな人といるのかもしれない。あるいは逆に、綺麗な言葉を言っておきたくて、最後の瞬間は一緒にいてほしくて、好きな人がそばにいてほしいのかもしれない。
 私の前を去っていった好きな人達。最後の言葉は何だっただろう。「じゃあね」だった人、「またどこかで」だった人、「年一くらいで集まろう」だった人。祖父は最後まで「背中が痒い」と言っていた。もう会うことのない好きな人。私は弱いのだろう。不安なのだろう。センチメンタルなのだろう。
 逆説的で、最後の時を考えながら人と付き合うなんて酷い奴だ。せめてたくさんの思い出がほしいから一緒にいたい、くらいの理由にしておいた方が良い。終わりを恐れながら一緒にいるなんて馬鹿げている。ポジティブに生きよ。
 しかし、喧嘩をしてしまった日は不安だ。これが最後だったらどうしようなんて考えるのだ。あんな奴もう知ったことないとか思う反面。矛盾している感情。それが私の中にある。
 なるべく喧嘩をしたくないし、なるべく綺麗な言葉を残したいし、別れのその時も、なるべく綺麗なままが望ましい、望ましいだろうか。何でもいい。頭が痛い。文字を見ると不安になった一日。