日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

スミノエ

 朝。
 あの人のいなくなった後のベッドは微かに墨の匂いがする。それに気がついてから、あの人は一冊の書物なのだ、と感じることができるようになった。私は夜の間だけ、あの人を開くことができる。あの人の内側を、覗くことができる。しかし、それは朝になると閉じられてしまう。そして、墨の匂いだけが残されるのだ。
 昔であれば、それは煙草の匂いだったと思う。あの人自身が煙草の煙のようだった。朝。ガソゴソと音がする。ライターで火を点ける音。僅かに溢れる光。匂い。もう一度眠る。起きる。もういない。遠くの花火のようだった。音はする。煙は流れてくる。しかし、光は見えない。もう煙草は止めてしまったのだろうか。
 
 
音はすれど光は見えぬ明け方の紫煙のような遠くの花火
 
 
 炭と墨は同じだろうかと今更になって気になってしまい、調べてみる。炭は無機物だが、墨は有機物だろうか。有機物と無機物の間は、生きているのか、死んでいるのか。有機物を燃やして無機物を作り、無機物から有機物を作り、有機物を使って無機質な書物を作り、そして無機質な書物を永遠に残そうとしている。循環。輪廻。そのまま燃やし尽くして灰にしてしまえばよかったのに。どうして、何もかもを永遠に残しておこうとするのだろうか。文章も絵も写真も、燃やしてしまえば一瞬で灰になるのに。永遠なんてどこにもない。
 
 
永遠を閉じ込めた日の写真あり灰にするのは一瞬のこと
 
 
 ハチミツとクローバーを読んだのはもう随分前なのだけれど、今でも一番よく覚えているのは、森田さんが醤油で絵を描くシーンだ。あの、全ての時間が止まったようなシーンだけが、いつまでも頭に残っている。あの絵は醤油の匂いがするのだろうか。
 
 私には、墨の匂いがした。
 
 「墨繪」というレストランが新宿にある。そこのレストランで出しているパンがレストランの裏で売っているので、そのパンを買ったことはあるが、レストランに入ったことはない。お店の名前の通り、レストランの壁には水墨画が飾られているのだろうか。墨の匂いがする中で食べる料理はどんな味なのだろう。
 
 そうこうしているうちに夜となる。あの人が帰ってくる。部屋からは墨の匂いがすっかりと消え失せてしまった。生きているのか、死んでいるのか、よく分からない匂いが部屋を充満している。
 
 夜。
 私は一冊の書物を開く。書物からは墨の匂いがする。私はその書物から永遠を見つけようとする。その書物が開かれているのは夜の間だけだ。朝になると閉じられてしまう。私は永遠を見つけようと、書物の隅から隅までを観察する。しかし、私は見つけることができない。分かるのは、人々が永遠を残そうと足掻いた僅かな痕跡だけだ。
 
 
永遠を閉じ込めている芸術に一瞬通る人の儚さ
 
 
 そして、朝。

百貨店

 ものすごく疲れている時は、物がいっぱいある空間に行くと落ち着く。それを夫に伝えると、会社帰りに私の買い物に無理やり付き合わされている彼は、少しうんざりしたように、そうかな、俺は物がいっぱいあると、それだけ情報量が多いってことだから頭が混乱してくるけど。それに人混みも苦手だし。君だって家が散らかっていると落ち着かないって言ってたじゃないか、と答えてくる。彼の言っていることはもっともで、特に反論の余地はない。私だって人混みは嫌いだし、家の中はなるべくなら清潔で、床にはチリひとつない状態であってほしい。しかし、それは家の中の話であって、私が言っているのはお店の中の話だ。人混みについては仕方がないので、なるべく閉店間際の客が少ない時間帯に、今日みたいな会社帰りに行くようにする。店員もそわそわしていて、早く帰ってくれないかなという空気が出ていて、それに釣られて客も急ぎ足で買い物をしているような空間の中で、ゆっくりと閉店時間ギリギリまで商品を眺める。食品を見ては、その味を想像する。何かの集まりにお土産で持っていこうか、今度自分へのご褒美に買おうかなと考える。食器を触ってみて、それを使っているところを想像する。食器に上にどんな料理を乗せたら素敵だろうかと考える。何に使うかわからないようなものを見るのも好きだ。そうやって時間を使う。夫はイライラしているが、無視する。何か買うときもあるが、大抵は何も買わない。店員からしたら厄介極まりない客だろうと思う。申し訳ない。
 好きなのは東急ハンズやロフトみたいなよく分からない雑貨がたくさん置いてあるお店だ。無印良品は、置いてある商品が、全て無印良品のブランドなのが気になる。もっと、多種多様なメーカーの物が置いてあってほしい。コンビニならちょっとオシャレなファミリーマートより、ナチュラルローソンの方が好きだ。商品数が多くて、雑多な感じがするから。伊勢丹高島屋三越のような百貨店も好きだ。特に地下の食品売り場が好きだ。そこで、食べる試食品や、芸術作品と思えるようなケーキを見るのが好きだ。関係ないけど、私はデパートという呼び方よりは、百貨店という呼び方の方が断然好きだ。食品といえば、カルディや成城石井のような、食品百貨店といった感じのお店も好きだ。お店が狭いと人が多い時に閉口してしまうけど。ドン・キホーテも好きだが、お店が狭いのと人が多いのがやはり気になってしまう。予備校生の時は、一緒に住んでいた伯父と夜中によくドン・キホーテに行った。そこでよく分からないレトロゲームとか、栄養ドリンク五ケースとか、お腹につけるだけで振動で腹筋が割れる健康器具などを買った。食品以外は全部倉庫で埃を被っている。
 でも、一番好きなのはアンテナショップだ。東急ハンズや百貨店やドン・キホーテはどこに何があるのかが、カテゴリーで分けられてしまっているのがつまらない。もっとどこに何が置いてあるのかが分からないくらい、自由であってほしい。アンテナショップは食品や工芸品や地方誌などが雑多に置いてあるのが嬉しい。食品は美味しいものもあるけれど、それ以外にどんな味がするのか想像ができないものもあるのが嬉しい。工芸品も、目を見張るような美しいものの他にも、その土地ならではのものを見たり触ったりするのが幸せだ。地方の雑誌を見ると、私が今まで知らなかったその土地の生活を知ることができて楽しいし、いつかそこに行ってみたいなと思う。アンテナショップに行って、何かを買うときもあるし、何も買わないときもある。ただただ、商品を眺めているだけで、楽しいし、幸せだ。いつか買うかもしれないし、永遠に買わないかもしれない。買わない可能性の方が高いだろう。それでもいい。そうやって自由な時間を過ごすと、私の凝り固まった頭がほぐれていくのを感じるから。私の世界が広がるのを感じる。私はもっと好きに生きて良いんだとも思う。
 それを全部夫に話すと、彼はよく分からないなあという表情を、隠すことなく顔に出す。加えて口にも出す。お店に行って、何も買わずに帰るというのがよく分からない、と。もっと目的的に生きたほうが良いんじゃないかな、何も買う気がないのに商品を眺めるなんて時間の無駄だよ、とまで言う。でも、と私は反論する。あなたも読みもしない本を買ったり、何も買わないのに本屋に行ったりするじゃないかと。そうじゃない、買った本はいずれ読むつもりだし、本屋に行くのもいずれ買って読む本を探すためだよ。特に意味もなく行っているわけじゃない、と夫は言う。必要なものを必要な分だけ買う、それがスマートな生活じゃないかな、あまり意味もなく買い物をするのは、大量生産大量消費の資本主義だよ。スマート、私はその単語を聞くと、そんなものは憐れな蝿のように牛蛙に食べられてしまえばいいのにと思う。そうだ、あなたはそうやって必要なものを必要な分だけ摂取する生活が好きなのか。そんな余白や無駄のない人生のどこが楽しいのだろうと思う。あなたは人生に本当に必要なものが分かっているのか、と尋ねたくなってしまう。そして、それに私はちゃんと含まれているのかと。そんなにスマートが好きならば、必要最低限の栄養だけをサプリメントで摂って生活すればいい。そう言いたいのをぐっと我慢して、私は彼に素敵な食器の上に乗せた、素晴らしい料理を提供する。彼は料理を褒め、大抵そこで言い過ぎたと気づいてくれる。
 まあ、私も疲れていると、ファミレスとかで料理を選ぶのが嫌になるし、醤油ラーメンだけで勝負しているラーメン屋で食事をしたい、そう言うと、彼はそうだろうそうだろうと満足そうに頷く。その顔の右頬を私は引っ叩く。ついでに左頬も。彼はキョトンとする。なぜ叩かれたか分からないから。無駄に叩かれたと思っているのだろう。その驚いた顔を見て私は満足する。無駄だと思うなら、そう思っていてもいいよ、でも私には必要なことだから。

YUME

 好ましくない夢を見た。倫理的に。夢に倫理を持ち込むと、それは現実になる。心の中で。
 高校のクラスで、英語の担当が黒人のレイシストだった。どこか奇妙な思いがしたが、それは私自身の中の前提となる知識に偏見があるのだろう。彼はユダヤ人の少年にローキックを食らわせていた。本気ではなかったと思う。本気だったらもっと痛がっていたはずだ。
 ただ、これは教育ではない、体罰だ、暴力だ、と思ったので、私は教室から職員室に内線で電話をした。本当は直接警察に電話をしたかったが、番号が分からなかった。しかし、電話に出たのは超保守的な先生だった。彼女にこれこれこういうことが起きて、警察を呼んでほしいと伝えた。しかい、彼女は私の言っていることを信じてくれず(先生が生徒に暴力を振るうなんてありえないと思っていたか、そんなことは大して問題ではないと考えていたのかもしれない)、電話を切ると、私の教室へとやってきた。でも、その先生が教室に来たときには、すでに暴力は終わっていた。黒人の先生とユダヤ人の少年は素知らぬ顔で教室に立っていた。その先生は「どこで暴力が行われているのですか?」と私に尋ねた。私は何も言い返せなかった。「あなたの世界で」と言ってしまえば良かった。
 
 本当はすごく怖い夢だったのだけれど(黒人の先生はボブ・サップのような体型だったから)、あまり怖いと感じなかった。どこかでこんなものは夢に過ぎないと思っていただろう。そういう、冷めた視線を夢の中に持つことがある。恋愛ではどうだろうか。
 
 優しい話と言うと、万物には人格があるようだ。「優しい気持ちを引き起こす話」のことを「優しい話」と呼ぶ。話自体が優しいわけではない。

社会

 台風が来たので、頭が痛くなった。頭痛のままに書きます。なので、全部間違っている。
 
 相模原の殺人事件も、大口病院の事件も、LGBTは生産性がないとか、自民党改憲草案に権利には義務が伴うと書いてあるとか、何だか根っこのところは同じような気がしてきた。雑にまとめると余裕がないということだけど、格差が目に見えて開いている。しかも情報化社会のために、文字通りそれを目にする機会が増えている。
 世界史で見ると、人々が集団生活を始め、社会を形成したのは、恐らくそれが生きていくために有利だったからだ。狩猟民族でも、一人が見張りをし、一人が獲物を追い詰め、一人が獲物を仕留めるなど、役割分担をすれば、一人の人間が獲物を捕まえるよりもずっと仕留められる確率が上がる。そこには役割の違いはあれども、格差や階級というものははっきりと存在しなかった。
 その後、農耕社会となり、文明と言われるものが誕生すると、神官という階級が生まれた。その社会では、彼らが実質的な支配層だった。彼らの仕事は神の声を聞く、つまりは天候の予想だった。彼らは生産性という観点から見ると何も生み出してはいないが、それでも市民を支配することができた。彼らは天候を当てることができれば、そのまま市民からの崇拝を得ることができたが、逆に外してしまうと殺されてしまう立場だった。それとは別に、農業という一次産業を行うもの、道具を作る二次産業を行うものもいた。
 そのうち、集団同士で小競り合いが起き、支配層が被支配層からの攻撃を防ぐために、兵士と呼ばれる階級が誕生した。こうして、江戸時代における、士農工商が生まれる。一応、神官という身分はこの中では商人となる。彼らは何も生み出しはせず、右から左へ物や、あるいは物ではない何かを動かすだけだが、それによって冨を得た。
 現代でも神官が支配層になっている。未来を見通せると言われるものが、人々を支配している。彼らはSNSを使って、被支配層の不安を煽り、お金を吸い上げている。そして、被支配層に、こっちの世界は良いところだと言い出す。こっちにおいでと。騙されてそっちの世界に行こうとすると、また痛い目に遭う。
 もう少し、「自分は自分、人は人」みたいな社会だったと思うのだけれど、それはすでに一億総中流の時代の幻想なのだろう。格差が広がり、それを見せつけられて、上の階層からの煽りを受け、向こうの世界に行こうとすると逆に利用されてしまう。実際のところ、子供を生むことが生産性というのも、完全家畜化された世界観に思える。乳牛は経済動物と呼ばれ、自らが生み出した牛乳から得られる売上よりも、自分が食べる餌の原価が下回ってしまうと、その時点で経済的にはマイナスなので、屠殺されてしまう。生産性がないと行ってしまう人は、人間をそういう風に見ているのだろう。
 まあ、自分自身が自民党に対して怒りを覚えているとか、仕事の生産性がないということを嘆いているわけではないし(というか、生産性なんて言うのも所詮メルヘンに過ぎない)、この社会に絶望しているわけでもないのですが。むしろ、そこまで嫌いでもなくて、それはなぜだろうか。
 
 台風が去ると、また暑くなる。空が低く見える。暑いからまだこれを夏と呼ぶのだろう。そのうちに涼しくなれば、秋が来たと言ってしまう。目に見えないのに、秋が来たと言ってしまい、目に見えない秋を好きだと言ってしまうのだろうと思う。

メタモルフォーゼの縁側とArtiste

 鶴谷香央理さんの「メタモルフォーゼの縁側」がなんかとても良い。今ならpixivコミックで全話読めるから興味のある方は読んでほしい。もし、Twitterアカウントをお持ちであれば、WEB漫画総選挙というものに投票してほしい(よく分からないけど)。
 
 少しBL要素と言うか、BL漫画を通じて老婦人と女子高生が交流していく話なのだけれど、BLのシーンはほぼないので苦手な人も大丈夫だと思う。
 
この先、含ネタバレ
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新宿を歩いてしまって

 新宿を歩いてしまって、ビルの二階に金貸し業者が、三階に不動産屋が入っていることに気がつく。三階で不動産を買うためのお金を、二階で借りることが出来るのだろう。よく出来ている。幽霊の住む物件を紹介してくれる不動産屋もいるらしいけど、会ったことはない。
 地上を歩いて新宿三丁目から新宿駅に向かう時、坂がだるいなあと思ってしまう。反対側の道路に渡ればエスカレーターがあるので(NEWoManの方だ)、信号待ちをする。南口の広場のエスカレーターは、夜は止まっていることが多い。なぜだろう。実は道路の下に小さなトンネルが通っているから、信号待ちはする必要は本当はない。一度だけ夜に通ったら、ホームレスの人が寝ていた。幽霊はいなかった。
 喧嘩が強いことを自慢するクラスメイトはいなかったなと思う。というより、喧嘩をするようなクラスメイトがいなかった。私立の進学校だったから、まあそうだよね、そうなのかな。尾崎豊の「卒業」みたいな世界ではなかったなあ。ただ、窓には鉄格子が取り付けられていた。外から中を守っているのか、中から外へ出ることを防いでいるのかは分からない。人間を思い切り殴ったことはないし、殴られたこともない。幽霊ならばどうだろうか。人混みを歩くのが怖い。肩とかぶつかって、因縁をつけられたらどうしよう。
 でも、これだけ人が多いと、幽霊が紛れ込んでいても分からないだろうな。幽霊は歩きスマホをしているから、ぶつからないように、こっちから避けないといけない。こっちが歩きスマホをしていたら、お互いにぶつかったことに気づかないだろう。幽霊が私を通り過ぎて、何となく寂しい気持ちになって、未読だったメッセージが読まれる前に消えてしまい、カメラロールには撮った覚えのない写真が追加される。だけど、もし相手が人間だった場合、ぶつかって因縁をつけられるのが怖い。喧嘩をして勝てる自信はない。そもそも、喧嘩なんてしたくない。だから、真っ直ぐ前を見て、人混みの中をスイスイと歩いていく。相手が歩きスマホをしていたら、こっちから避けてあげる。そうやって歩いていると、私はこの街で幽霊になることが出来る。新宿を歩き切ることができる。

 
 人の短歌を読んでいると、「これ、本当のことなのかな。それとも想像上のことなのかな」と考えることがたまにある。別に短歌の内容が真実かどうかなんて、作者自身が分かっていればいいのだろうし、本当にあったことだけを短歌にする必要なんて全くないのだが、個人の肌感覚として時にそれが問題になるようにも思える。
 
 私はうたの日という、インターネット歌会を毎日行っているサイトで、以下の短歌を投稿し、「いかにも嘘くさい」と評を頂いた。
 
万札をビリビリにして川に撒き今日という日の弔いをする
『 ビリ 』 ニコ #うたの日 #tanka http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=1347e&id=9

 

 頂いた評は以下である。
 
「葉万札をビリビリにして」はいかにも嘘くさい。短歌は真実を詠む必要はないが、リアリティはあった方が読者に伝わると考える。
 
 正直、この評を頂いたことが今でも時々思い出すくらい悔しいし、もう少し違う言い方はないのかなとも感じるけど、評自体は非常に的を射た発言だと思う。では、この「嘘くさい」が短歌において何が問題なのだろうか。短歌において「嘘」は良いけど「嘘くさい」のはダメなのだろうか。
 ここからは個人的な見解になってしまうけど、「現実に起こり得ないことを、現実に起こったように詠む(現実に存在するものを使う)」ことが問題になるのだと思う。だから、
 
1. 現実に起こったことをそのまま詠む
2. 現実に起こり得ないけれども、想像上や夢の中のこととして詠む(現実に存在しないものを出すなどしてそれを分かるようにする)
3. 現実に起こり得ることを、現実に起こったように詠む
 
といった場合はあまり問題視されないのではないだろうか。そして、更に言ってしまうと短歌において大事になるのは、「嘘をつくにしろつかないにしろ、そこできちんと自分の思いを言い表せているだろうか」ということだろう。
 
 俵万智さんの超有名な短歌で
 
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日/俵万智
 
というのがあるが、これは実際にはサラダではなく鶏のから揚げであったことや、七月六日というのも意図的に設定した日付というのはよく知られていると思う(一応Wikipediaにも載っている)。
 
実際は鳥のから揚げをいつもと違う味付けにしたら『美味しい』と言われたので、『これで今日は記念日だな』と思ったのがきっかけであったということと、爽やかな感じを出すためにメインではなくサイドのものが記念日になるということが表現したかったことや、サラダのSや7月のSが響き合うことや、7月7日では七夕であるので1日前にずらしたことを自身が語っている。
 

  

 しかし、ここでは「実際には鶏のから揚げであるから嘘ではないか」や「七月六日ではない」といったことは問題にはならない。あくまでこの短歌で表現したいのは、「君が料理を褒めてくれたことを、新しい記念日にしたいくらい嬉しいと思っている」ことであるからだ。ここでは、「3. 現実に起こり得ることを、現実に起こったように詠む」、ということが行われている。だが、ここでもし例えば「フカヒレ記念日」といった、あまり現実的でない(しかし現実には存在する)ワードを出すと、嘘くさくなってしまうのではないかと思う。
 私の短歌に戻ると、「万札」というのは現実に存在するが、それをビリビリに破るというのは現実的な話ではない。そのため、これは「現実に起こり得ないことを、現実に起こったように詠む(現実に存在するものを使う)」ということをしている。これを、例えば「君との写真」にすれば、「3. 現実に起こり得ることを、現実に起こったように詠む」こととできるし、「人生の青写真」とすれば(歌としての出来が良いかは別として)、「2. 現実に起こり得ないけれども、想像上や夢の中のこととして詠む(現実に存在しないものを出すなどしてそれを分かるようにする)」ことができる。蛇足だが、私は昔の恋人との写真を破いて川に撒いたことはある。
 もう一つ、この短歌で良くないと思うのが、この短歌において「自分の思いを言い表す」ということがきちんと出来ていないことだろう。ここで言いたいのが、貨幣主義への批判なのか、単に仕事で疲れすぎてしまったためなのか、そもそも何が言いたいのかが分からないため、上手く言い表せているとは言えない。もしかしたら実際に万札を破き、川に撒いた経験がある人が世の中にいるのかもしれないが、そういう人は「今日という日の弔い」というフレーズではなく、もっと違う思いを抱くのかもしれない。この短歌では、そこに真実味を持たせるだけの強さが足りない。私は、「万札」というワードを使って嘘の話を作ってしまっただけではなく、作品内に真実味をもたせることが出来なかった。そのため、「嘘くさい」と言われてしまったのだろう。ここで、「真実味」という言葉を使ったが、これは「リアリティ」とも言い換えることができる。ただ、作品においてリアリティが必ずしも必要かというと、必要なのは設定(フレーム)のリアリティではなく、結果として生じる感情のリアリティなのだと思う。だから、この短歌は、もう少し感情のリアリティを出せれば、違う評価を受けられたのかもしれないなと思う。
 ここまで自分の作品をけなしておいてあれだが、作品自体はそれなりに気に入っていて、それはその時仕事でクタクタに疲れ切っていて、給料はもらったのだが、それが会ったこともない家主から借りている賃貸の家賃分にもならないと考えてしまって、なんだか誰のための一日だったのだろうと思って詠んだのだ。なので、
 
万札を破りたいほどの憂鬱さ今日の私を弔うために
 
くらいにしたほうが良かったのかなと思う(出来は置いといて)。本来私が言いたかったのは、一日空しく働いたことの憂鬱さだったのだけれど、それを作品に落とし込めてはいなかったのだろう。ただ、この気持自体は本当のことではある。
 まあ、結局何か表現したいというのがまず一歩目だと思うから、嘘をつくことに表現上意味があるのであればそれで良いのかもしれない。それに、現実的に起こり得るか得ないかの判断基準は人によって異なるから、実際にあったことでも嘘っぽいと言われてしまうこともあるだろう。サラダを普段食べない人にとっては、サラダ記念日も嘘だと言われてしまうかもしれない(そこまでくると、想像力が足りていない気もするが)。
 
 余談だけど、上手いと思う短歌と、そうではない短歌の違いはなんだろうかと考えた時、私は
 
・言葉の変更が不可
表現者が無理なく等身大で詠んでいる
 
ことがまず挙げられるかなと思う。特に前者について、上手い人は言葉の選び方のセンスが絶妙で、それ以外に考えられないという言葉をチョイスしている。
 あと、短歌の虚構について調べると、「私性」の話が必ず出てくるのだが、短歌の短さを考えると、余計な情報を入れる隙間がないと感じられるので、必然的に「作中行為者」は「私」に近しい存在となる。サラダ記念日で言えばサラダ記念日を設定したのは私であるし、万札をビリビリにしたのは私である。どこぞの名の知らぬAさんでもなければ、君でもない。ただ、それは一首のみを鑑賞した時に顕在化するもので、連作で見ると松野志保さんのような例もあるし、読者が何を求めるかということにもなるので、ちょっとこの辺は自分でもはっきりしていない。短歌に暗黙のルールがあるように感じられることもあるし、積み重ねた歴史があるために集団の文学という側面も感じる。そもそも、自分が学が浅い上に、短歌史についてもちゃんと分かっていないので、自分の中で何もはっきりとはしていないのだけれど。虚構性の話も含めてもう少し自分の中で咀嚼していきたい。
 ここまで書いてなんだけど、自分が短歌を詠むのは、誰かに読んでもらい、評価されたいためなのかなとか考えてしまって(評価されたら嬉しいのは嬉しいのだけれど、それが第一目的なのだろうか)、なんかよくまとまらないし、短歌の虚構の話は4年前の石井僚一さんの件でさんざん議論されただろうから(その時はまだ短歌をやってなかった)、今更私が何か新しいことなんて言えないのだけれど、ここまで書いてしまったので、何となくアップする。あとで読み返せると自分が嬉しいかもしれないと思い。
 
参考にしました。
 
石井僚一さんの件
 
短歌と私性について