日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

飲んだら酔うという話

 自分語り。
 
 本格的にお酒が弱く、ビールでもコップ一杯で顔が赤くなる、所謂酩酊状態になる。エタノール分解酵素を持ち合わせていないのでは、と思うほどである。そういう種族なのだろう。それに加えて、一時期抗うつ剤を飲んでいたために、お酒を控える必要があり、さらにスポーツジムに通うようになってからは、あまりお酒を飲まなくなって、半年に一回くらいしか飲まない。何かの会(懇親会など)でも飲まないことが多い。更に言ってしまうと、お酒の席での粗相をしたことが5!回(5の階乗、120回)ほどあるため、個人的に初対面の人の前で酒を飲むのはやべえなと感じている。
 昨日、高校時代の友人と会い、久しぶりにお酒を飲んだのだが、やはり一杯で酩酊状態となる。しかし、それで緊張状態が解けるのは事実であり、楽しい時間を過ごすことができた。昨日の会の趣旨は半年ぶりに会う友達から漫画を借りるというものだったのだが(強奪に近い)、漫画やCDの貸し借りという文化がまだ我々の間に続いているのだ、と考えるだけで嬉しくなる。
 余談だが、私は今は無き三洋電機の研究所に二週間ほどインターンシップに行ったことがあり(大学の単位のため)、インターンの間は三洋電機が所有していた群馬の社員寮に住まわせてもらった。ちなみに、インターンの歓迎会でも当然粗相をした。その寮内で仲良くなった社員の人がいて、休日は車で近くのショッピングモールに連れて行ってもらったり、冬目景さんの「羊のうた」と「イエスタデイをうたって」を貸していただいたり(「イエスタデイをうたって」はまだ連載途中だったが)、くるりの「ベスト オブ くるり -TOWER OF MUSIC LOVER」も貸していただいたりした。私はその後三洋電機に入社しなかったし(というか三洋電機自体がなくなった)、その人に恩返しすることもできず、というか実際何の研究をしたのかさえよく覚えていないのだが、その人が車でかけてくれた、くるりワンダーフォーゲルのイントロが今でも覚えている。
 
こういうの古いのかもね。でも僕らは、本を貸し借り文化を残す(短歌です)
 
 今日は若干二日酔いになってしまって、私は朝起きるとなんかやりたいことを色々考えて、時間の使い方を逆算したりしなかったりするのだが、今日はもういいかという気持ちになって、まあいつも別にスケジュール通りに行動はできないのだけれど、今日は殊更どうでもよくなってしまって、酒を飲めば飲むほど何もかもがどうでも良くなるタイプの人間であるなと感じ、やはり酒は控えるべきだろうかと思った。でもなんかリラックスした文章が書けた。
 
 面白さを優先しがちなので、それが人の心にどのように影響するのかが分からない。人の心が分からない。というか、面白くないかもしれない。なんか面白くないですか、みたいな感じで作品の解説をしてしまう。
 さっきから、あと一回パスワードを打ち間違えるとアカウントがロックされる画面を眺めていて、ロックされたら面白いかなと思う。
 
ログインが出来ない画面あと五回失敗したら面白そうだ(短歌です)
 
 みなさん、お酒はほどほどに。

サイド

サイド、サイド
上から声が降ってくる
どういう意味? と尋ねると
もう一度という意味だった
 
サイド、サイド、サイド、サイド
容赦なく声が降ってくる
もう無理だよ、終わりにしよう
僕の叫びは無視される
 
サイド、サイド、サイド、サイド
途中から数を数えるのを諦めた
声が止む、気配はない
 
サイド、さいど、再度、side
ああ終わる、と思ったら終わった
帰ってきた
おかえり、と言われる
ただいま
もうループは懲り懲りだ

はじめて

初めて喋った言葉は覚えていないけど
初めて作った詩のことは何となく覚えている
 
初めて食べたご飯の味は覚えていないけど
初めて炊いたご飯の味は何となく覚えている
 
初めて聞いた音楽は覚えていないけど
初めて買ったCDはよく覚えている
 
初めて読んでもらったお話は覚えていないけど
初めて好きになったお話を何度も読んでもらった
 
初めてできた友達は覚えていないけど
初めて好きになった人のことはまだ忘れられない
 
初めて見た夢は覚えていないし
昨日見た夢も覚えていない
 
幼い頃の夢はまだ覚えているし
今もまた追い続けている夢があって
 
初めて君と交わした言葉は覚えているし
最後に交わした言葉も覚えている
 
初めての温もりは忘れたくない
この温もりが最後ではありませんように

長い話の後で

 一個前のブログの記事を書くのに、多分6時間くらい費やしたのだけれど(遅筆・遅漏)、もう何やってんだろうって感じ。それで、ノルウェイの森を久しぶりに読み返したら、レイコさんの過去の話で泣けてきて、実のところ作中だとレイコさんが一番詳細に過去が語られているなと思い、レイコさんの年齢にもそのうち追いつくと考えるとまた泣けてきた。やっぱり、小説は素晴らしいし、下手な評論よりは小説を読んでいたほうがずっと精神に良い。創作内に嘘があるとかないとか、どうでも良くなる。詩は思想の表明ではない。

 

嘘2(枡野さんと穂村さんの対談を読んだ雑感)

2018年8月17日追記
 時間をかけて書いたから消したくないんだけど、チキンだから消したいという感情がある。この対談を読んでTwitterを見ていると、どうしても意見の対立が目につくし、このブログの記事も物事を単純化しすぎたせいで、結論が飛躍しているとも感じた。今のところ残しておきますが、何か問題があれば、DMください。まあ、アクセス数を見る限り見ている人は10人もいないっぽいが。
 

2018年8月29日追記斉藤斎藤さんにお会いする機会に恵まれ、やはり自分の文章が全て想像だけで書かれていて(まさに机上論)、かつ論理が飛躍しているなあと感じた。一応残しておくけど、消すかもしれない。枡野さんのおっしゃっていることも理解できるのだけれど、特定の人物を標的にするのはやり口が上手くないかなあと思っている。

 

言葉の力

 
 昨日のうたの日(うたの日はオンラインで毎日開催されている歌会です)。
 
見えている色をあなたに伝えたいのに「青」「あお」「アオ」"ao" 不自由だ、言葉は
『 不自由詠 』 ニコ #うたの日 #tanka http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=1596e&id=10

 

 有り難いことに、評を二つ頂いた。
 
この歌にコメントしてしまうのがすこし悔しくて というのは結局「不自由だ、言葉は」ていう結句のステイトメントにわたしは反応してしまってるんですよね
「言葉は不自由なんかぢゃない」て心の底から思っていて私には大好きな短歌や大好きな大喜利や大好きな小説の一節があってそこではみんな本当にかわいく言葉が羽ばたいてるんですよ 少しでもそこに近づきたくてわたしも短歌を作ったりしているんですけどその方法として直接的な表明ではなくてただ目の前にある「もの」を信じるていうやり方を採用してやってきたのでこういう表明短歌に足を止めちゃうのがすこし悔しいんですよね すみません‥もちろん信じるものは自由だしそれが悪いと言ってるのではないんですけどね
詠者さんも本当の意味で言葉は不自由だとは思ってないと思うんですけどこんなに分かりやすい形で言葉が使われているのを見ると「言葉の不自由さ」をわたしはすこし感じてしまいます いろいろ考えてしまいました
白黒つけたいカフェオ-レ

 

不自由をどう捉えるか、今日は悩ましい題だなと思いました。
詠むにあたって、不自由だと感じているものを書き出してみたのですが、一番最初に書いたのが、「言葉」でした。
自分の感覚に一番近しい歌で、とても共感したので、今日はこの歌にハートを入れました。
美しいものを美しいと伝えるとき、それをどうやって言葉にしたらよいのだろう、どうやって伝えたらいいのだろう。短歌を詠むようになってから、いつももどかしく不自由に感じています。
見えている色を伝えたいとき「青」「あお」「アオ」という文字でもなく、「ao」という音でもない。もっとしっくりくる、ぴったりな言葉があるはずなのに見つからない。だから、既存の言葉に頼るしかない。そんな不自由をそのまま歌った短歌。
不自由だと分かっているのに、それでも言葉を探しづけて「あなた」に伝えようと足掻く姿が、美しいのだと思う。心を打つ、好きな歌です。
未補

 

 私はこう返信した。

 
白黒つけたいカフェオ-レ様
コメントをありがとうございました。今回の歌は題に引きずられて、直接的かつ説明的になってしまったなと、コメントを拝見して思いました。結果として扇情的となっていて、詩としての完成度が低かったと思います。
私自身も、大好きな短歌や詩や小説があって、その中の言葉たちに心を動かされているのは揺るぎない事実なのですが、その気持ちは後天的に作られたというか、言葉という枠組みの中で生じた幻想のようなものではないだろうかという思いが、常に頭の片隅にあるような気がします。幻想でも、それはそれで良いのですけど、かつて小林秀雄が『美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。』と言っていたように、自分が花の美しさに言及するとき、それはすでに言葉の不自由さに囚われてしまっている気がして、何だか悔しいと思ってしまいます(小林秀雄の言葉は特に言語についての不自由さについて述べたものではないと思いますが、これ以上は専門でもなんでもないので、言及は避けます)。
ただ、それはそれとして自分は言葉を使って短歌を詠んでいるので、なんというか意味もなく大人にただ反発する子供のような歌になってしまいました。白黒つけたいカフェオ-レ様のコメントで、自分のそうした斜に構えたものの見方や卑しさが暴かれてしまった気がして、恥ずかしい気持ちです。重ね重ね、コメントに感謝いたします。
 
未補様
コメントをありがとうございます!上の自分のコメントと矛盾してしまうようですが、共感をしていただけると大変に嬉しく思います。
今回は単にクオリアの話で、色の伝える困難さの話になってしまいましたが、未補様のおっしゃるように例えば美しさや愛なんかを、我々は言葉を使って、ここにいる方たちは短歌という形にして必死に伝えようとしますが、どこかにもどかしさを感じているのかもと思います。
今回のお題で点字の歌を詠んでいる方もいましたが、
 
「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい/笹井宏之
 
や、うたの日でも西村曜さんの
 
「花束」の手話がわからず思い切り抱きしめてみる たぶん合ってる
『 花束 』 西村曜 #うたの日 #tanka http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=1118a&id=29
 
といった歌があって、言葉の力、というものについて考えてしまいます。
完全に蛇足ですが、今回のお題で
 
識字率100%のこの国でただ抱きしめることしかできず
 
という歌も作りましたが、完成度が低い上に西村さんの歌とかぶるので出さなくてよかったなと思います(というか既に類想歌がありそう)。
コメントをくださって本当にありがとうございました。
 
ニコ  
 
 今回は言葉の不自由さというか、不完全さについて言及した短歌となって、その詩としての完成度はさて置き、なんかコメントを頂いて、自分は言葉の力を信じていないのかなと、落ち込んでしまった。言葉を信じていないというか、自分の信じる言葉を使っていないというか。前者は言葉を全体的に信じているということになるが、後者は言葉の一部を信じていることになる。自分が持っている言葉の中に、信じられるものと、信じられないものがあるのか分からないけど、ここでは好きか嫌いかで言い換えてみたい。というと、単純に自分の好きな言葉で文章を書いているのか、と考えるとできているか怪しいなと思い、恐ろしい気持ちになる。
 自分の創作物が好きになれないと思うことが多々あって、それは人からの評価を受けていないということが第一に理由として挙げられてしまうのだろうが、そもそも好きな言葉を使って書いているのだろうか、と思う。これが好きだ!、と思いながらちゃんとやっているのかなと。自分が感動したことをきちんと消費できているのかなと。人からの目だけではなく。
 自分が避けているのは、言葉に対して責任を負うことで、それができていないから、これが好きだと心から思えていないし、人からの批判を恐れてしまっているのだろうと思う。結局技術ありきになってしまって、中身が入っていない。
 まあ、今回の歌は言葉の不自由さについてで、言葉への好き嫌いは別として、では言葉に万能性はあるのかと考えると、私は恐らく信じていない気がする。これってまずいのかな。でもこれについてはブログでも何度か話したことではある。でも、好きか嫌いかについて、言葉に責任を負えるかどうかについて、それはきちんと表現していきたいなと思うし、コメントでもそこの部分を突かれてしまった気持ちなので、ちょっと冷却期間を置きたい。単純にうたの日を少しお休みするってことですが。
 
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