日々のこと

I'm becoming this all I want to do.

F1、AI、自死

 友達がF1にハマっていて、今度鈴鹿まで行ってグランプリを見に行くらしい。私はあまり興味がないのだが、昔兄がテレビで見ていたのを横から覗いたことはある。シューマッハ兄弟とか、ハッキネンとか、そんな時代だ。ちらっと見ただけだったが、車が同じところをぐるぐると周っているようにしか思えなかった。たまにピットストップでタイヤ交換を行うが、これも早ければ早いほど良いため、一瞬で終わってしまう。そのため、何が起きているのかよく分からない。コースを走っている光景も、実際はものすごいスピードが出ているのだろうが、テレビの画面越しだとそこまでスピードが出ているように感じなくて(これはテレビで見ていると、野球のピッチャーが投げる球があまり速く見えないのにも通じる)、興味がない人間が見ているとだんだん飽きてくる。
 とは言え、F1が好きな人に「同じところをぐるぐると周っているだけでしょ」と言うのは、サッカーが好きな人に「ボール蹴っているだけでしょ」とか、読書が好きな人に「文字列を追うだけでしょ」とか、絵画の鑑賞が趣味な人に「絵の具がキャンバスの上に乗っているだけでしょ」と言うくらいセンスがないことくらいは分かる。同じところをぐるぐると周っているのを見るだけであったら、自動運転で済む話だ。そういう同じ場所をなぞるというのは、自動運転の得意とするところだろう。つまり、そうではなく人間が運転して、整備するのが面白いのだと思う(ただ、自動運転の車同士で競うのも面白いかもしれない)
 
 ただ、人間が運転するとミスが起こる可能性がある。そのため、技術が確立してしまえば、普段の生活で車を乗る時は人間が運転するのではなく、自動運転に徐々にシフトしていくはずだ。そうすると人間は車を運転する面白さという感覚を段々と失っていくことになる。それでもF1は続くだろうか。続くような気がする。分からないけど。
 この人間の「ミスをするところ」というのも面白さの一つなんだと思う。完璧なものを見ていても面白くない。将棋におけるAIと人間の戦いも、人間が勝っているうちは良かったが、人間がもう絶対勝てないというところまでAIが進化してしまうと、それ以上見る価値はあまりない。人間同士が限界を少しずつ超えながら、時にはミスをしながら戦う姿を見ると、手に汗握るほどの興奮を得られるのだろう。
 
 しかしながら、人間よりミスの少ないものがあるのであれば、今後はそっちの方が重宝されるようになっていくだろう(それがAIなのかは分からないが)。裁判も判例を重視するのであれば機械で良いのではないかという話になってしまうし、外科手術などのミスが許されない作業も機械の手助けがあった方が良いだろう。
 
 そう、我々はミスをする。本人が思いもよらない所でも。
 ゲーテが書いた「若きウェルテルの悩み」を読んだ若者達が同じ方法で次々と死んでしまったことを「ウェルテル効果」と呼ぶが、ゲーテ本人は自殺したわけではないし、まさか小説を読んで人が自殺するだなんて思いもしなかっただろう。
 我々が小説に影響を受けて自死を選んでしまうのであれば、人間は小説を書くべきではないのかもしれない。AIが書いた、完璧な、自殺などを思い起こさせない小説を読まなくてはならない。それはどんな内容だろうか。きっと、ぐるぐると完璧な周期で周回をする物体を永遠と見せられるかもしれない。それは一つの輪廻であり、全ての人の人生である。